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(15日目)実家との距離感

基本的に長期連休は実家でくつろいでいる。しかし、毎回思うのだが、全然気持ちはくつろげていない。

居心地は悪くない。というか、一般的に良いほうだと思う。インテリアのセンスもよく、料理は実に美味い。美味すぎて外食に行く必要がほぼない。正直今もこの料理を楽しみに帰ってきているようなものだ。

ただ、何というか、過ごしていくうちにだんだん牙を抜かれた状態というか、甘えがでてしまうというか … 穏やかだが、何か社会の流れから隔離されたような。

ここでは、いまだに自分が何もしなくても父や母がやってくれる。自分が行動しなくても時は過ぎていく。(まるで竜宮城のようだ!) それはそれは、とても危険な場所なのだ。

そういう意味で、実家は『安定な状態に満足を覚えることができない』という僕の性格を改めて気づかせてくれる貴重な場所になっている。


***


両親はいつも安定を望んでいた。(今もそう願っている) が、僕はその生き方を不自由と感じていた。結局考えの不一致から僕は家を出たのだが、家を出たって自分自身は自由にはなれやしなかった。
両親に敷いてもらった安定というレールから外れる勇気もなく、ただいつも葛藤していた。

そのうち「(普通のことは)やらない」ということが自由を求める僕の心のささやかな慰めとなっていった。

近年、父や母、実家との付き合い方は徐々に変化している。これは悪い変化ではなく良い変化だ。たぶん実家にいたときよりも互いによく話し、課題を解決しようと前向きになっている。僕も実家を定期的に手入れしたり、家族のためにインフラを整えるという役割を担うことに喜びを感じるようになっている。

あれほど不自由に思っていた実家との関係に対してポジティブになったのは、「やらない」という考え方から「行動する」ことで何かを得ようという考え方にシフトしつつあること、結局するもしないも自由で、自分の価値で何かを決定すること自体が「自由」だと気づけたことが大きい。


母はiPad Proが欲しいらしい。

4年前に買ってあげたiPadはもう彼女の生活には欠かせないものになっている。一眼レフも買った。写真は家族共有のアカウントで管理しているクラウドサーバにUPしている。母は実は頑固なようで、柔軟に新しい技術を受け入れていっている。この前は勧めたマンガをいたく気に入ったらしい。マンガなんて幼稚なものだと言っていたのに。

昔、両親というものはもっと距離がある人達だった。ずっと大人だった。いつのまにか、お互いが歩み寄ってこんな距離まで来たのかと思うとなんだかとても感慨深い。


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