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谷崎潤一郎著『刺青』読書感想文

『賢者タイム』


"リハーサルは嫌い。だってセックスの前にリハーサルはしないでしょ。"

これはアイスランドの音楽家、ビョークの有名なパンチラインである。芸術家が自身の表現行為を性行為に例えるのは、今となっては手垢にまみれた紋切り型の常套句だ。だが、何かを生み出す表現行為と性行為に、何らかの共通点が存在するであろう事実を私は否めない。

性行為と表現行為が交錯するタイプの芸術家が世の中にはごまんといる。谷崎潤一郎は日本を代表するその一人だ。ほぼ谷崎童貞の私はこの作者についての詳しい事は分からないが、少なくともここで描かれている物語には露骨過ぎるほどに性的なものを感じた。サディズムからフェティシズム、そして注釈によると、深川の芸者は男物の羽織を着ていたらしく、世のありとあらゆる性的倒錯が、表現としてこの物語では昇華されている。

性的なテーマを扱い、変態的な内容でありながらも、一方でこの物語はユーモアにも富んでいる。

その足を一目見ただけで、清吉はその女に憧れ、恋に落ちるまでになる。その足の描写は見事極まりなく、谷崎先生はかなりの足フェチだった事が伺える。やがて女と運命の再会を果たし、清吉は意気揚々と刺青のコンセプトを自慢げに語り出す。女の体に針を刺し、やがて施術を終え満足した清吉は虚ろになり、女に絵をやっては、さっさと家に帰るように促す。そう、まさに絵に描いたような正真正銘の賢者タイムである。そして家に帰れと言ったのも束の間、最後にもう一回ちょっと見せて、と言う。この何処かで見た事のある様な、自分勝手で女々しい男の姿を、私はよく知っている。


性行為に終わりはあるが、表現行為に終わりはない。運命の邂逅を経て、己の魂をついに昇華し、そして賢者タイムを迎えた清吉は、また新たな作品を生み出す事ができるのだろうか。この後の清吉の生涯が気になるところだが、物語はここで幕を閉じる。半ば悶々としながら本書を読み終えた。

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