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【プロレスと私】 第8回 ジュニアヘビー級というジャンルを確立したドラゴン藤波(1979年)

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 1979年8月26日に日本武道館で行われた『プロレス夢のオールスター戦』で、藤波辰巳(新日本プロレス)はジャンボ鶴田(全日本プロレス)、ミル・マスカラスと組んで、マサ斎藤(フリー)、タイガー戸口(全日)、高千穂明久(全日)と対戦。マスカラスが斎藤をフォールし、夢のトリオが勝利を収めている。

 第7回で述べたように『プロレス夢のオールスター戦』のテレビ中継はなく、各団体と専属契約していたテレビ局のニュース枠で約3分間のダイジェストが放送された。日本テレビはメインのジャイアント馬場&アントニオ猪木 vs アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シンと、この6人タッグマッチを放映。非公式の映像ではあるがYouTubeにもアップされていて、藤波、鶴田、マスカラスによるトリプル・ドロップキックも観ることができる。


 
 同年10月2日、藤波は大阪府立体育館で、フリーとして前年から新日に参戦していた元国際プロレスの剛竜馬とWWFジュニアヘビー級王座を賭けて対戦。不覚にも逆さ押さえ込みでフォールを奪われ、チャンピオンの座を明け渡している。翌々日のリターンマッチ(蔵前国技館)に勝ってベルトを取り戻しているが、藤波の王座転落は非常にショックな出来事だった。国内のみならず海外(ニューヨーク、ロサンゼルス、メキシコシティ、カルガリーなど)でも防衛を重ねていた藤波がベルトを失うことなど、想像したこともなかったので。小学2年生だった私は「ジュニアヘビーのベルト」イコール「ドラゴン藤波のベルト」だと思っていた。

 1978年1月23日にニューヨークで第3代WWWF(当時)ジュニアヘビー級王者に君臨した藤波は、剛に敗れるまで24回の防衛に成功。2日後の再戦でベルトを奪還し、ヘビー級転向を理由にタイトルを返上した1981年12月まで、第5代WWF(WWWFより改称)ジュニアヘビー級王者として28回。通算52回の防衛記録を打ち立てている。
 また、1980年2月1日には札幌中島スポーツセンターでスティーブ・カーンからNWA世界ジュニアヘビー級インターナショナル王座を奪取。WWFとNWAの2大タイトルを獲得した初の日本人選手となっている。

 1981年4月23日のデビュー戦以降、またたく間に国民的スターとなった初代タイガーマスクがジュニアヘビー級というジャンルを広く知らしめたことは間違いない。しかし、躍動感みなぎるドラゴン殺法に魅了された当時のプロレスファンは、世界をまたにかけて活躍したドラゴン藤波こそが日本にジュニアを根付かせた最大の功労者であることを知っている。


(つづく)


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