哲学思考のし過ぎは時に毒
こんばんは。皆さんは哲学的思考していますか?
筆者はぼーっとしている時、お風呂に入っている時、1人で歩いている時などに哲学的思考にふけってしまいます。
些細なことに疑問を持つ事こそが屁理屈な記事を書くコツだと、そんなことを前の記事で言った気がします。
ですが哲学的思考のし過ぎは精神衛生上良くないです。
世の中になぜそのような仕組みができたのか、なぜ人間はそうしてきたのかと考えているうちに
「あれ、なんで死ぬのに皆頑張っているのだろう。」という結論に至ってしまいます。
なんなら生き物全般の目標である"子をなし種を繁栄させる"という遺伝子的行動にも疑問を持ってしまいます。
なぜ絶滅してはいけないのか、繁栄の先に何があるのか、その繁栄の過程において産まれ死んでいくのが本当に幸せなのか……
産まれた時からDNAに刻まれたこの行動に何となく皆従っていますが、なぜそうしなければいけないのかはあまり理解できません。
後世に自分の存在を遺伝子として伝えるためでしょうか?一種の自己顕示欲だとすれば筆者も何となく分かります。
筆者は音楽や絵、文章という形で後世に自分の存在を残しておきたいという気持ちが大きいです。
何となく死んだ時に誰にも存在を覚えていられず、この世にいたこと自体忘れられるのが怖いのでしょう。
その点では知名度を伸ばさなければいけないクリエイティブな自己顕示欲よりも、順当に子孫を残した方が確実にこの欲求を満たすことが出来る行動だと思います。
有名にならなくても家系図に名前が載り、遺伝情報はその種が絶滅するまで残る訳ですからね。
そう考えれば種の存続に拘らない筆者は愚か者なのかもしれません。
いつから道を踏み外したのかは分かりませんが、物心着く前から将来家庭をもつというビジョンは描いていませんでした。
多分小さい頃からそこそこ哲学的思考をしていた影響でしょうか。変に達観して人間は愚かとか言ってた子供だった気がします。嫌な子供ですね。
このように哲学的思考は時に毒となり、生き物としての根底に疑問を持ってしまうことになる可能性があります。
マイノリティであるからこそ哲学者の考えは注目され、深いものだと言われてきたのでしょうが、本人たちは果たして幸せだったのでしょうか。
1歩先を行く考えをする人だと賞賛されることは、同じ次元で話をできる人が周りにいないと言い換えることができます。
友人や恋人がいて事実上孤独ではなくても、思想に耽っている時にはなんとも言えない孤独感が湧き上がることがあります。
どんなに達観しても自分は皆と同じ種族だということを強く念頭に置かなければ、その孤独に負けてしまう可能性もあります。
きっとそこで負けてしまった哲学者らは発狂してしまったり、自ら命を絶つことで思考を手放し自由になろうとしたのでしょうね。
長々と書いてしまいましたが哲学というのは面白いものでありますは、それについて考えすぎると時に毒になるという結論です。
特に疑問を持たず家庭を築き、子孫に囲まれて一生を終えるのが多分生き物としていちばん正しい幸せなんだと思います。
しかしそこに疑問を持った時点でその幸せから身を引いてしまう事になる訳ですからね。
これから哲学に触れようとしている方はどうか程々に、生き物としての真髄を忘れないようにしましょう。
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