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ゴーリーコーチの野本【経歴編~大学時代~】

どうもゴーリーコーチの野本です。


2022年5月から明治大学女子ラクロス部のゴーリーコーチを始めた事をキッカケにゴーリーコーチとしてのインスタとnoteを開設して運用していきます。

そう思った理由はいくつかあるものの大きな理由として

①明治大学女子ラクロス部の人数が100人を超えているため、1人1人にゆっくり自己紹介するコトや何を考えて今コーチをしているのか伝えるツールが欲しかったコト


②日々、学生ゴーリーに色々教えるものの個人によって教える事が違うので、教えた事や考えをまとめて学生が確認できるツールが欲しかったコト


③自分の考えに対して、周りの反応を見てみたいと思ったコト

簡単にいうと僕の経歴はU22や日本代表に最終選出されたコトもなく、地方の国立大学を卒業し社会人で6年プレーしただけのゴーリーです。


まずはこのnoteを通して、明治大学女子ラクロス部に自己紹介を行い、どこの馬の骨だかわからない人間がコーチをしているという状況を変えていこうと思う。

それと同時に学生時代の自分のような、地方の大学でゴーリーコーチも先輩ゴーリーもいない中で何もわからない中、日々暗中模索するような練習を繰り返すゴーリーの参考になればこの上ない。


それを踏まえ、このnoteでは経歴の紹介と大学時代を綴っていく。

大学生はヒマな授業中に、社会人は練習後の移動時間にでも読んで貰えたらと思う。



【経歴】

北海道札幌市出身

年齢:31歳

岩手大学男子ラクロス部(2009~2012)

FALCONS(2013~2014)

ACL(2015~2017)

VALENTIA(2018)

岩手大学男子ラクロス部アシスタントコーチ(2019~2020)

明治大学女子ラクロス部ゴーリーコーチ(2022~)


ラクロス部がある県としては本州最北端の岩手にある岩手大学に入学したところからラクロスキャリアが始まる。

その後、就職と同時に上京してFALCONSから社会人ラクロス人生をスタート。

大阪転勤に伴いACLに移籍し3年プレーした後に、転職で東京に戻ってきたのでVALENTIAに移籍し1年プレーする。


2018年のワールドカップ出場を目標にしていたが、選考されず現役を引退。


その後、岩手大学男子ラクロス部HCの佐藤陽一さんに誘われて、岩手大学のコーチを始める。

未だに勘違いされているが、僕の拠点は東京で岩手にはコーチの際に遠征していた。


たまに会うラクロスの知り合いに『今、岩手住んでるの??』と言われるが、現在進行形のバリバリの東京BOYである。

僕自身の印象でもあると思うが、東京より岩手に住んでる方が他人から見て似合っているのかもしれない。

田舎臭さが抜けないのも考えものだ。


岩手大学のコーチを辞めた後に、色々なキッカケがあり明治大学女子ラクロス部のコーチを2022年5月から始めるコトになった。


色々な経緯はあるが

まずは、岩手大学時代を綴っていこうと思う。



【岩手大学男子ラクロス部~ラクロスとの出会い編~】


2009年4月に岩手大学教育学部に入学する。

札幌から岩手に単身で乗り込んだので、友達はおろか知り合いが誰もいない。

入学前のオリエンテーションで友達が何人か出来るものの、その友達にも地元の友達がいるため、入学式には1人っきりのいわゆるボッチで参加した。


元々、高校時代は硬式野球をしていたので、大学でも何か運動をやりたいと考えていた。

大学生活の最初で浮足立っていたコトもあり、参加できる新歓コンパには全て参加した。


コンパに参加すればするほど友達が増え、色々な勧誘を受ける度に、

『自分の新しい可能性を知るためにハンドボールをやる!』と意気込んでみたり、ある日には『自分の力を試したい!』といきり立ち空手部への入部を決意したり、典型的な入学に浮かれフワフワしている大学生だった。


色々な部活への入部を決意する中で、最終的にラクロス部への入部を決める。


決め手はシンプルでその当時好きになった女性が陸上で全国レベルの選手だったので、自分も全国レベルのプレイヤーになり肩を並べたいと考え可能性が最も高い部活がラクロスだと考え入部した。


この判断は正解でもあったし間違いでもある。

最たる間違いは、ラクロスを頑張ったところで好意を寄せる女性とは付き合える訳ではないコト。

3年生の秋か冬に付き合えない事がわかった時には、自分の学生生活にはラクロスしかないと確信し一生ウェイトルームに籠っていた。

正解だったコトは、あの時ラクロスを選んだことで今の自分があるということ。


月並みだが、今でもラクロスを続けていると色々な刺激を受け、自分のやりたいコトに活きている。


人生には色々な分岐があると思うが、岩手大学でラクロス部を選んで良かったと今は思う。





【岩手大学男子ラクロス部~入部から引退~】


印象に残ったコトを何個か綴ろうと思う。


そもそも僕の4年間は、学生時代のHCである恩師かつ友人の佐藤陽一さんがコーチ目線で書籍として出版している。100部弱売れていて、書籍を観た人から個別に悩みの相談がきているらしい。

宣伝ではないが、地方の学生主体でチーム運営している人達には参考になる事が多いと思う。

(陽一さんのインスタのストーリーから無料で全部観れるので気になる人はコチラから!)



そんなこんなで2009年4月にラクロス部に入部して2012年10月下旬に引退する。


入部2週間で陽一さんにATからGへポジション変更を命じられ、ゴールデンウィークの練習を全部サボりラクロス部退部を決意するところからラクロス生活がスタートした。


ただ退部する前に1度ゴーリーとしてプレーしてから退部しようと思ったところ、ATをやっていた時よりも褒められるコトが多く、周りの言葉にもノセられて再度ラクロスを頑張ろうと決意。


ただ、ゴーリーになっても地方のサークルのような部活に勿論ゴーリーコーチなどいるはずもなく、2人いた先輩ゴーリーもいつの間にか部活に来なくなり、チーム唯一のゴーリーがクレドルも出来ない1年生になった。

(4年生リーグ戦 ビジュアルが崩壊している)

ただ1つ幸運だったのは、いつもシュートを打ってくれるのが前年まで早稲田でMFとして試合に出ていた陽一さんだったコト。

クロスも編めない僕は陽一さんの同期の早稲田のゴーリーにクロスを送り編んでもらい、まったくセーブできない陽一さんのシュートを毎日受けてをただ繰り返すだけだった。


それでも東北地区には当時陽一さん以上のシューターがいなかったので、試合に出れば幾分かはセーブ出来た。

勿論ゴーリーが僕だけなので、1年生ながらリーグ戦にも出るが筆舌に尽くしがたい負けを何度も経験した。

試合中に相手のATに1年生が試合に出てるコトを馬鹿にされ、失点した後に相手の4年生から普通に落ち込むような悪口を言われ、失意のどん底の中試合会場の仙台から岩手まで3時間弱かけてバスで家に帰る。

オマケにお金も無いので、前日にマックスバリューで買った割引された一番安くて大きいパンを頬張りながら、帰りのバスで試合のビデオの中から数少ないセーブシーンをピックアップし繰り返し見て、出来るコトが増えてるのを実感していた。

【遠征のお供 コスパ良し量良し味良しのすげぇパン】


この時くらいから、自分のプレーの振り返りを含めてラクロスの試合を観るようになった。

観るのは専ら、陽一さんが持っていた2008年の早稲田のリーグ戦のDVDや早稲田がスカウティング用に撮っていた社会人リーグの試合だった。


家にいる時は中古で買ったPS2でラクロスのDVDをずっと観ていた。

早慶戦や関東の集客試合のように音楽をかけて入場して、選手コールされてみたいと思ったり、応援団やチアリーダーに応援されて自分のプレーで観客を沸かす未来を夢見ていた。(そんな未来は結局来なかったが…笑)


マニアックな話しになるが2008年関東学生リーグ準決勝、早稲田vs慶應の試合は何回観たかわからない。

個人的なラクロスベストゲーム。


この時、試合に出ていたプレイヤーと社会人チームで一緒にラクロス出来るコトを岩手の6畳半に佇む僕は知らない。


この時くらいから今でもそうだが、動画を観ながら自分がフィールドに立っていたらどうするかを考えながら観る癖がつく。

同時に自分の考えたコトと違うプレーが起きたら、何でそうなるのか手あたり次第質問する事で岩手にいながらも色々なラクロスのカタチを知る事が出来た。


そんなこんなで時は流れる。


2年生の時に『あすなろ』に出場し、夜行バスで帰る前に偶然入った飯屋で慶應の女子ラクロス部と相席し信じられないくらいテンションが上がった事や、

先輩から飲み会に呼び出されて行くや否や罵詈雑言を浴びせられ速攻退部して次の日には隣の秋田に日本酒を飲みに行き、2日後に再度入部してみたり色々紆余曲折あったもののラクロスは続けた。

【退部して解き放たれるものの次の日起きると寂しくなる。家出と一緒】


そんなこんなで1つのイベントが訪れる。

東北地区推薦というカタチで日本代表の練習に参加できるコトとなった。



【日本代表練。そして引退へ】


地方の恩恵だが、3年生の3月に地区推薦というカタチで実力に関わらず日本代表の練習に参加出来る枠がその当時あった。

あまりにもレベルが違うのは分かっていたが、どんなシュートが受けれるのか試してみたいと思い参加を決意。


会場に着いても勿論知り合いは誰もいないが、岩手で観ていたDVDの中でプレーしていた選手がそこにいた。

くだらない話しだが、代表選手のアパレルのカッコ良さに衝撃を受けたのを今でも忘れない。

当時僕のアパレル一軍は地方ラクロッサーにありがちのペラペラのアンダーアーマーのパンツとシャツ。

それに比べて、ナイキのカラフルなシャツや派手なパンツ、代表のシャツを着こなしているプレイヤーにプレー以前に憧れた。(アパレルのダサさはこの後社会人1年目に痛いほど実感する事になる)

【こんな感じのパンツ。東北地区では専らアンダーアーマーが流行ってた】


代表練は1日だけの参加だったが、ここで受けたシュートのイメージのおかげで4年生の1年間は乗り切れた。

丁寧かつ色々な角度から放たれるシュート。特にロングのプレイヤーがこんなにも正確かつ速いシュートを打てるのをこの時初めて知った。


このイメージを岩手に持ち帰り、同期や後輩に伝え勿論代表レベルには満たないが色々なシュートを岩手で受ける事が出来るようになる。

この時から、試合で受ける状態に近いシュートをどうやったら練習で作れるのか意識して練習するようにもなった。


また、代表練の最初にシャトルランがあり96本で潰れた愚かな僕を死ぬほど怒ってくれた先輩(その後FALCONSで一緒にプレーする)から、1回の練習に対する思い入れや集中力を間接的に教えて貰った。

今でもそう思うが、強いチームと弱いチームは1回の練習に対しての目的意識が全然違う。


自分も岩手で目的を持ち日々の練習に取り組んでいるつもりだったが、所詮井の中の蛙で、代表は勿論関東の上位校出身のプレイヤーはそもそも見ている世界が違う事を痛感した。


代表に対して何も爪痕を残せなかったと思っていたが、岩手から参加した事とシャトルランで怒られていた姿がFALCONSのプレイヤーの印象に残り、1年後の2013年3月に獨協大学でFALCONSに誘われる。


また副産物的だが、この練習でちょうど新卒選考を受けていたバンダイの内定者の先輩に出会う。

僕からしたら2010年に学生でワールドカップに出て慶應出身のスタープレイヤーだったがラクロスの事以外にもバンダイの選考についても懇切丁寧にアドバイスしてくれた。

その甲斐もあり、その後バンダイの内定を貰い会社の先輩にもなる。


今でもラクロスの繋がりで助けられるコトがあるが、この時初めて東北地方の辺鄙なグラウンドで『lacrosse makes friends』と強制的かつ声高々に叫ばされていた意味が少しわかった気がした。


色々な感情を抱きながら4列シートの夜行バスに揺られ岩手への帰路に着く。


【引退と振り返り】


夏の終わりに良く見る、ビハインドで4Qを迎えダブルを仕掛けて失点して点差を広げられて負けるという典型的なカタチで部活を引退する。


結果だけ見れば、1年生の時に30点差くらいで負けていた東北大学に勝ち、東北地区優勝したものの目標であった全国大会1回戦突破は出来なかった。


試合まで色々なスカウティングはしたものの、準備が足りていなかったコトが明確な敗因。

自分たちがやりたいコトの準備は出来ていたが、自分たちがやられて嫌なコトの対策ができていなかった。


引退と同時に社会人でラクロスを決める事を決意。

また、『日本代表を目指す』ことを目標にしようと決めた。


そこに特にロジックはなく、また代表の人とラクロスをしたいと思った事と陽一さんから卒業の際メッセージで『日本代表になれる』と言葉を貰っていたので、ノーロジックでイケると思っていた。

【結果は代表候補止まり。ただ今でもラクロスや仕事の話しは友達のようにしている。】

ラクロスを始めた時は、朝練が嫌で同期と毎日天気予報の情報をシェアしていた。

1年生の時、雨で中止になるかどうか微妙な振り方の日には、朝の3時くらいにグラウンドに行き、同期5人くらいとバケツに水を溜めてそれをグラウンドに撒いて練習を中止にしたこともあった。(朝3時に起きているならそのまま練習すれば良いのに今思えば本当に馬鹿)


お金が無さすぎて、当時時給700円の映画館のバイトを月に110時間程度入って遠征費を稼いだ。

それでもお金の心配をするのが嫌だったので、4年生の時は借りていた奨学金の金額を倍プッシュして尚且つバイトもしていたので、後から気付くがバンダイの初任給を遥かに超える金額を毎月貰っていた。

あの時、未来の自分が全部どうにかしてくれると思っていた。結果的にどうにかなっているので間違いだったけど間違いではなかったと思う。


代表練に参加してから引退までは、6時から始まる全体練習の前に

5時15分にグランドに行き5時30分~6時30分までゴーリーアップを行い、それをビデオで撮影して毎日ビデオを振り返りセーブ率を出し代表のゴーリーと自分の何が違うのか1人で考えていた。

東日本大震災の日も、ビデオを観ながら昼寝てしまい地震直後は部活のビデオカメラだけ持って家から逃げ出した。

寝ぼけてもカメラを持つ事を忘れないくらい、ビデオを観ていたし上手くなるために必要な相棒だったのだと思う。



次回は『FALCONS~乞食ラクロッサーと言われる野本編~』を綴ろうと思う。
社会人でラクロスを続けるのは最高に大変で最高に面白い。


読んでくれてあざっす。



















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