ラシャキオピアンガ

ある日美しい夕焼けの河原にて。
彼女はバッグをぎゅっと僕に押し付けて見ててねと笑うと少し離れた場所まで走って行き、両手を肩の高さで平行に上げると勢いよく側転をはじめた。真横にぱたっと倒れ、また起き上がり、また倒れ、また起き上がる。繰り返しくるくると器用に回り続けてちょうど7回目。彼女はぐしゃっと柔らかく崩れ落ちて芝生の上にシリモチをついた。僕は押し付けられた彼女のバッグを胸元に抱えたまま彼女がうずくまる場所までなよなよと走って行った。
「だいじょうぶ?」
「力つきただけ。大丈夫。ちゃんと見てた?」
「見てたよ。すごいね。僕は一回もできない」
うふふ。彼女は満足そうに笑ってパンツについた泥をぱんぱんと小気味よくはらう。
「これが人間万華鏡だよ」
彼女は得意げに言った。
見通しが良いところで側転するとね、景色がぐるぐる回って変わって行くの。万華鏡みたいにきれいなの。

 僕には妻と2歳の娘がいるのだけれど、ある日出会った彼女に強く惹かれてしまい、もう1年くらいつきあっている。彼女への気持ちは強くなるばかりだが、このままではいけないという罪悪感や後ろめたさも日々募るばかり。そろそろ落とし前をつけて白黒はっきりさせなくては申し訳が立たない。彼女に対しても。家族に対しても。

今度こそはと強く自分に言い聞かせ、本当に別れを切り出すまでには5度のデートを必要としたが、いよいよ今日、つい先ほど、僕は毅然とした口調で別れよう、別れたいと告げた。彼女は一瞬目をまんまるに見開いた後くすりと笑い一言、やだ、と言った。
「やだじゃないよ。本気なんだ」
本気なのは知ってる。彼女はしれっと受け流す。

「そんなことより出張のお土産は?きれいな万華鏡、買ってきてくれるっていってたよね」
「出がけにうっかり娘に取られた。だから君にはあげられなくなった。ごめん」
「甘いパパだなあ」
彼女は子供のように口を尖らせたが、まあ、でもそんなもんかとあっさり諦めてくれた。
ごめん。僕はもう一度謝る。万華鏡のことだけじゃない。これまでの諸々全部に対して。
「どういたしまして。それより万華鏡といえば、人間万華鏡って知ってる?」
そう言って彼女は僕にバッグを押し付け、先ほどのすばらしい7連続側転を見せてくれたのだ。

 人間万華鏡で別れ話がうやむやになったまま日はとっぷりと暮れた。家に帰らなくていいの?と尋ねる彼女にまだ大丈夫だからなにか食べようと提案した。最後の晩餐。おいしくて高いものには目がない彼女に何でも好きなものを奢るつもりだった。寿司は?星付きのフレンチは?それとも鉄板焼きがいい?しかし僕の提案はことごとく却下された。
「ファミレスがいいな」
彼女は意外なことをいった。
「さっき転んで泥だらけだしおなかもぺこぺこだからね」

店に入って注文を終えると彼女が空メールを送れと言い出した。聞いても理由は言わない。変なの。文句は言うがいつものことなので言われた通りにすると美しい着信メロディが聞こえてきた。
「さて、この曲の名前はなんでしょう?」
「ヘンデルかな。ラシャ・キオ・ピアンガ」
僕は答えた。
「すごい。正解。では日本語の曲名は?」
「『私を泣かせてください』だったっけ」
「「私を泣かせてください」その通り。大正解、さすが」
彼女はパチパチと手を叩く。
「拍手だけ?景品は?」
「考えてなかった。でも、そうだな、じゃ、言うとおりにしてあげてもいいかな。ラシャキオピアンガ正解の景品として」
彼女は下を向いて携帯を操作しながら言った。
「言うとおり、とは?」
鈍い僕が本当にわからなくて尋ねると
「別れたいんだよね。別れましょ」
彼女は天を仰いでさらりと言った。

食事が終わり、ドリンクバーのコーヒーと黒豆茶を代わる代わる飲んでいた彼女は普段より多弁だった。会社の話、趣味の登山の話、学生時代の友達の話、芸能界のゴシップ。いろんなこと、わりと軽めのことを次々に話題にした。

食事を終え、外に出ると雨が降っていた。
「私、アナタのいい思い出になれますかね」
独り言みたいに彼女はつぶやいた。僕はうまい返事が思いつかない。
「なーんて、そんなの無理に決まってるか」
彼女は僕の返事を待たずに勝手に結論づけた。送るよ。僕は車のキーを振って誘ったが、
「全然平気。これくらいの雨は雨のうちに入らない」
じゃあね。彼女は言い、フードをざくっとかぶると僕に背を向けてさっさと歩き始めた。
「雨けっこうふってるよ。濡れるよ」
無言でひらひらと後ろ向きのまま手を振る彼女。振り向かずに前進し続ける後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
「いい思い出にするには時間がかかると思う」
僕は彼女の背中に向かって叫んだ。彼女は後ろ向きのまま歩みを止める。フードにバンバンと雨が叩きつけている。
「しばらくは淋しくてそれどころじゃないと思う。でもいつかきっと…」
僕の言葉の途中で彼女はキレ良くくるっと回れ右をして振り向いた。
「あんなひとりごと、気にしないの」
フードをかぶったまま、小さな子供を穏やかに叱るお母さんみたいな口調で言う。
「アナタは、むしろ私のことなどきれいさっぱり忘れて、幸せでいてほしいのです」

じゃあ、ほんとにじゃあね。にっこり笑った彼女の左目からぽろりと涙がこぼれた。
「ええと、ちなみにこれは汗ですから」
めちゃくちゃなことを言い、両目からじゃらじゃら「汗」を流す彼女。やっぱり送るよ。僕は言ったが、彼女は首を横に振った。
「私を泣かせてください。ひとりで」
そう言うと彼女は再び雨の中へと歩き出した。僕は雨の中、完全に見えなくなるまで彼女を見送った。