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ドラッカーのキーワード② 「真摯さ」とは

ドラッカーのマネジメント(エッセンシャル版)を読み直して、今までなんとなく認識はしていたものの心にグサっと響く一言があったのでここに記載してみたいと思います。

マネジャーにできなければならない事は、そのほとんどが教わらなくても学ぶことができる。しかし、学ぶことのできない資質、後天的に獲得することのできない資質、始めから身に付けていなければならない資質が、1つだけある。才能ではない。真摯さである。

この真摯さとは何なのか、わかるようでわからない。志の高さなのか、それとも論語の孔子の言うところの憤を発して食を忘れる憤のこと、つまりはエネルギーなのか。

また、組織の中でマネジメントやマネージャーがどのような責任を負っているのかということを改めて考え直す良い機会にもなったのでここで記載してみたいと思います。

マネジャーとは何か

そもそもこのドラッカーのマネジメントで表現されるマネジャーとはどのような立場の人のことを言うのでしょうか。

マネジャーとは組織の成果に責任を持つものとされている。

マネジャーを見分ける基準は命令する権限ではない。貢献する責任である。権限ではなく、責任がマネジャーを見分ける基準である。

マネジャーと対になる存在として専門家がいる。どちらも組織の貢献に寄与すると言う意味においては重要な存在である。
ここの関係でマネジャーの必要性が表現されています。

専門家にはマネジャーが必要である。自らの知識と能力を全体の成果に結びつけることこそ、専門家にとって最大の問題である。専門家にとってはコミニケーションが問題である。自らのアウトプットが他のもののインプットにならない限り、成果は上がらない。
彼らは理解してもらってこそ初めて有効な存在となる。彼らは自らの顧客たる組織内の同僚が必要とするものを供給しなければならない。このことを専門家に認識させることがマネージャーの仕事である。
専門家が自らのアウトプットを他の人間の仕事と統合する上で頼りにすべき者がマネジャーである。


学ぶことのできない真摯さとは

ドラッカーの言う学ぶことができない真摯さとは一体何なのか。
学ぶことができないのであれば、生まれ持った才能と考えるしかないのか。だとすると、マネジメントの人材は生まれ持ったものを持っている人を選び抜くと言うプロセスになります。

私はそうは思いません。犯罪を犯して罪の意識にさいなまれないような人は別としても、人からの感謝を喜べる人には真摯さが備わっているのではないか、または真摯さの土台になるものが備わっているのではないかと思うのです。

真摯さの土台があれば、そこに真摯さを積み上げて伸ばしていくことができるのではないかと私は考えています。
だからこそ教育があるのだと思います。

佐藤一斎先生の言志四録には以下の表現があります。

本性は同じゅうして質は異なり。質の異なるは教の由って設くる所なり。性の同じきは、教の由って立つ所なり。

以下、超訳 言志四録 西郷隆盛を支えた101の言葉 濱田浩一郎著 より

一斎先生は「すべての人間はもともと善人」と言い切っていますが、これは儒教の根本にある「人間の本性は善である」という考え方、いわゆる「性善説」に基づいています。  しかし、もともとは善人だとしても、人間は生きているとさまざまな体験をします。騙されたり、裏切られたりして傷ついてしまうこともあるでしょう。それによって、本性である善の心が曇ってしまう人も出てきます。気質の違いが生じるというわけです。  そして、心が曇った人はふたたび善の心へ、本性を失っていない人はさらなる高みへと導くのが教育というものだ、と一斎先生は説いているのです。


儒教の根本にある性善説、ここを積み上げていけば組織の貢献に責任を持つマネジャーになり得るのではないかと思うのです。


真摯なボスのイメージ

ドラッカーのマネジメントには、真摯さを具体的に表すような表現が以下のようにされています。

うまくいっている組織には、必ず1人は、手をとって助けもせず、人付き合いもよくないボスがいる。この種のボスは、とっつきにくく気難しく、わがままなくせに、しばしば誰よりも多くの人を育てる。好かれているものよりも尊敬を集める。一流の仕事を要求し、自らにも要求する。基準を高く認め、それを守ることを期待する。何が正しいかだけを考え、誰が正しいかを考えない。真摯さよりも知的な能力を評価したりはしない。
このような資質を欠く者は、いかに愛想がよく、助けになり、人づきあいがよかろうと、またいかに有能であって聡明であろうと危険である。そのような者は、マネジャーとしても、紳士としても失格である。

執筆された1970年代とは時代背景が変わっているため、今の時代にも全く同じような振る舞いをするかどうか分かりませんが、真摯さを類推するに必要なイメージが浮かび上がってきます。

真摯さの資質を欠く者をということで、「愛想が良く、助けになり、人付き合いがよかろうと、またいかに有能であって聡明であろうと危険である。」とされている者は、論語において以下のように表現されている郷原に該当する人かもしれません。

子曰く、郷原は徳の賊なり。(陽貨第十七)

安岡先生の論語の活学によると、

孔子が言われた、田舎の善人と言われるものは ーあの人は良い人だと評判の良い人間は、上っ面だけ調子を合わせていい子になろうとするから、かえって徳を損なうものである」と

論語は表の道徳と言われるだけあって、ここら辺はやっぱり厳しいです。田舎の善人的な人も、空気作りや雰囲気作りにおいては重要なのではないかと私なんかは思ってしまいます。世間を見てもそういう人は様々な世界で活躍しているように思います。

ただ、ドラッカーのいうところの真摯なマネジャーと言う立場にしては危ないと言うことなのでしょう。

組織の成果に責任を持つマネジメント、マネジャーと言う立場において必要な資質というものが真摯さということであるということなのかと思います。


まとめ(まとめにならないまとめ)

・真摯さ とは、学ぶことができない とドラッカーは言うが、私はそう思いたくない

・論語の言う郷原(愛想がいいだけの人)は、真摯ではない

・真摯さを求め、学び到達しようとする姿勢こそ真摯さなのではないか

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