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【エッセー】回想暫し7 急行日本海と北海道の旅

 幼いころ、札幌から大阪へは葬儀やら何やらで2回行っている。いずれもまず函館へ行き、次いで青函連絡船に乗る。これがいつも夜間なので津軽海峡を見たことがなかった。乗船してすぐに眠る。4時間後に叩き起こされる。この4時間がきつい。せめて6時間あればどれだけ助かったことか。
 寝不足で半分眠ったまま下船する。青森は、札幌の人がよく口にした内地のはじまりである。すでに急行日本海はプラットフォームに停車しており、大勢の人々が座席を確保するべく一散に駆け出す。女や子どもも負けてはいない。まさに弱肉強食の席取り合戦。そういう時代であった。
 青森から大阪までが長かった。よく一昼夜という言葉を使ったが、実際は15、6時間だったようである。座った姿勢で眠るのは苦しい。目が覚めているときはすることがない。退屈して各車両の探険に出かけても、すぐに終わってしまう。通りかかった車掌さんが長旅だねと慰めてくれた。この旅で金沢の駅名を覚えた。因縁と言おうか、私と金沢の縁はかなり早い時期からはじまっていたようである。
 ついに大阪駅に着く。長い広いプラットフォームを時間待ちなのか、ステテコ姿のおじさんが3、4人、ぶらぶら歩いていた。当時は人前であろうと、おじさんたちはすぐにシャツとステテコ姿になった。夏の大阪は想像を絶する暑さであった。
 
 金沢から普通列車で夏の北海道を目指したのは、学生時代の二十歳のころか。妙高高原と親不知に立ち寄った以外は何も憶えていない。ひたすら北へ向かったようである。
 青函連絡船は昼日中の便にした。真っ暗な海しか知らなかった私には、津軽海峡の碧い色は衝撃的であった。ほんとは綺麗な海だったのだ、と感嘆した。
 洞爺丸事故は、そのときより10年ほど前の1954年9月26日に起きている。同月21日に発生した台風15号、いわゆる洞爺丸台風が暴虐の限りを尽くし、洞爺丸を転覆に追い込んだ。乗員乗客1,314人のうち、犠牲となった者が1155人、助かったのが159人という大海難事故であった。
 函館に着くと、七重浜洞爺丸慰霊碑へ行き、黙禱した。目の前には穏やかな海があった。函館から稚内へ向かった。稚内の少し手前、抜海ばっかい駅でかなり長い時間停車した。プラットフォームに立ち、辺りを眺め回して仰天した。かりに、これぞ北海道という景色ランキングがあれば、あのときの抜海は断然トップではなかろうか。
 自分の立つ位置から360度、どこを眺めても原野が広がるばかり。人工的なものは何一つない。遠くに目を凝らしても何もない。ほんとに何もなかったのである。
 駅長さんが、あるいは駅員さんかもしれないが、だれに言うともなく、「1年中、ここにいてごらんなさい。精神がおかしくなりますよ。呼ぼうと叫ぼうと、だれも答えてくれないんですから」
 と語った。
 北の果て稚内に着き、宗谷岬の日本最北端の地へ行った。抜海の衝撃が残り、最北端に対する感動はさほどなかった。それから、知床、羅臼岳、摩周湖、釧路、然別湖、札幌などを巡ったが、これといった逸話はない。
 ホテルや旅館に泊まる旅ではない。たいがい駅前のベンチのうえに寝袋を広げ、潜り込んで朝まで直行する。米は自分で炊き、おかずは地元のスーパーマーケットで買う。そんな旅に疲れ、せっかくの観光地を素通りするようになった。帰りは急行日本海に乗った。列車が青森駅をあとにしたとき、ほっとした。
 
 ところで、洞爺丸事故の5年後、1959年9月21日に発生した台風15号、いわゆる伊勢湾台風が同月26日、愛知県と三重県を滅茶苦茶にする大災害を惹き起こした。9月21日も台風15号も9月26日も、洞爺丸台風のときと数字がぴたりと一致する。世の中には時として、単なる偶然では片づけられない何かがある。後日、私は三重県とも縁を結ぶことになった。

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