見出し画像

君何処にか去る 第四章(2)


 
 道友は、新聞に出たS教授の顔写真をとくと見た。白髪、額の広い聡明そうな顔つきである。
「人は見かけによらぬものだな。立派な顔立ちをしている。M子君にとっては、タイミングのいいやっこさんの辞職だった。さぞかし歓迎したことだろう」
「ほんにようございました。でも、まさか、無徳さんがS教授を辞職に追い込んだのではないでしょうね」
「いくら無徳君でも、そこまでの力はないだろう。S教授は無茶をやりすぎて責任を取らざるを得なくなったのではないか。大学側は、S教授の突然の辞表を当然のごとくに受理し、何ら慰留しなかったというのだからね。同教授が先年、学部長として独裁者のように振る舞ったことが、本人を孤立無援に追い込んだのだろう」
「みずから墓穴を掘ったのですね。お気の毒ですが、同情はしませんわ」
 道友は夫人と話しながら、S教授の人生がどこから狂い出したかを思った。M子が晴れ晴れとした顔容で稽古にやって来、心配をかけた旨を詫びた。いろいろ話をしているうちに、M子が、
「なぜS教授が辞めたのか、だれも知らないのです。学内はその噂で持ち切りです」
 と、言った。道友は、S教授の突然の辞職が依然として謎であることを知った。
(そう言えば、無徳君はあれ以来、しばらく休むと言ったきり姿を現わさない)
 にわかに動悸がした。
「M子君、こんなことがあったのだ」
 道友は、この間の顚末てんまつを話した。
「えっ。そ、そんなことがあったのですか」
 M子は文字どおり飛び上がった。
「M子君、どうしたのかね」
「無徳さんに会わなくっちゃあ」
 M子は真蒼になって飛び出していった。道友は訳が分からず夫人とともに吐息をつくばかりである。
 数日後、稽古時間をとうにすぎたころ、無徳が姿を見せた。髯が伸びて精悍な顔に凄みが加わっている。無徳は、道友夫人が淹れたお茶を美味そうに飲んだ。
「君から詳しいことを聞こうと待っていた。しかし、どうやらその暇すらないようだね」
 道友は、無徳の発する切迫した気に呑み込まれた。
「はい。申し訳ありません。またしても逃亡です。いつもそうなります。ついては、いま少し早いのかもしれませんが、先生、「残月」をご教授いただけませんか。この街で、わたしに残された時間はほんのわずかです」
「分かった。伝授しよう」
 道友は、すぐさま残月の楽譜を無徳に与えた。二人で、いつものように楽譜を声に出して読んだ。次いで、共に尺八を吹いた。大事な個所ごとにそこでユリを入れろだの、そこはもっとメリ込めだの、チをリのメリで吹けだのと細部にわたって教授した。
 最後に無徳が一人吹きした。鳴らない竹はいい音色を立てた。切迫している割りに、否、切迫しているからこそ、無徳の呑み込みは早かった。たった一回の手ほどきで、「残月」という大曲の核心に触れたかの感があった。
「先生、本曲もと思うのですが、いまだ無理でしょうか」
「否。無理ではない。しかし、わたしは教えたくないのだ。本曲というと何か上級のように聞こえるが、相伝に次ぐ相伝だ。原曲と現在に伝わる曲とでは、まったく別物になっているのだよ。そんな曖昧な曲を本曲だなぞと押し戴くのはどんなものかね。一方、外曲といえども、残月ともなると本曲に匹敵する。君は無理に本曲を求める必要はない。つらいとき、悲しいときには残月を吹きなさい」
「分かりました。先生、これにてお別れします。ご恩は一生忘れません」
 無徳は尺八の代金の残りの支払いをすませると、慌ただしく帰り支度をはじめた。
「無徳君、車かね」
「いいえ。車だとかえって足が付きますので、歩いて間道から峠を越えます」
「隣県につながるあの道かね。アルプス越えとまではいかないが、けっこう難路らしいね。車は途中で行きどまりになるし、あの道なら、だれも思いつかないだろう。君はあの寂しい道を一人で行くのかね」
「はい。そういうことになります」
 道友は、無徳を町外れまで見送ることにした。
 

 
 道々、道友は事のいっさいを聞いた。S教授を辞職させたのは、無徳だった。無徳がS教授宅を張り込んでいると、植木屋が庭木の剪定をはじめた。その植木屋に頼んで下働きにしてもらい、庭のうちに入り込んだ。あちこちを調べ回っていると、S教授が密かに大麻を栽培しているのを見出した。無徳は、同教授が大麻の生育ぶりを眺める場面を写真に撮った。
 そののち、すぐさま同教授と対決し、K大辞職を求めた。はじめ、同教授はせせら笑っていたが、大麻の写真を見て顫え上がった。
 ──君はいったい何者だ。
 ──何者でもいい。K大を辞職しなさい。
 ──無茶を言う。わたしには家庭がある……。
 ──おたくは事の軽重が判らぬようだ。この場の話し合いをリードするのは、わたしかおたくか。
 ──わたしが断ったらどうする。
 ──写真は警察、マスコミ等に送られる。
 ──君はわたしを滅ぼす気か。
 ──おたく次第だ。
 ──何とか見逃してもらえないか。金なら何とかする。
 ──往生際の悪い男だ。K大を辞職しなさい。それしか、おたくの助かる道はない。
 ──見逃してもらえるならば……。
 ──うるさい。どう足掻いても逃げ道のないことが判らぬか。
 同教授は散々に渋ったが、無徳が一喝するとついに諦めた。
「無徳君、ずいぶん無茶をしたね」
「M子さんは、わたしに手編みのセーターをプレゼントしてくれました。俗に、一宿一飯の恩義と言います。わたしは恩義に報いたまでです」
「話を聞いたぶんでは、君が逃げることはなかろうと思うが……」
「じつは、Sがあまりに煮え切られないので、少々痛めつけました。やつは警察に連絡するでしょう。やつの恐い弟にも……」
「警察は君を捕らえるかもしれないが、S教授には大麻栽培という弱みがある。交渉次第では、何とかなりそうだが……」
「わたしは、何よりも警察とは接触したくないのです。それにやつの恐い弟には話が通じません」
「君はS教授をK大から追放し、S教授は君をK市から追放した。勝負は引き分けか。しかし、君はM子君を救った。M子君は久しぶりに稽古に現われたが、元気そのものだった」
「それはよかったです」
「警察は、わたしのところに聞き込みに来るだろうか」
「首都圏へ逃げたと見せかけて時間稼ぎをしました。明朝ぐらいには現われるでしょう。しばらく前から稽古に来なくなった。あとは知らないとお答え下さい」
「君はこんなことははじめてではないな」
「何度もというのではありません。しかし、はじめてではありません」
「また漂泊の旅かね。端から見れば羨ましいような……。しかし、君自身にとっては、やりきれないだろうね」
「はい。定住したいといつも思ってきました……。先生にご恩返しをと思うですが、無理なようです。風樹の嘆(樹静かならんと欲すれども風やまず、子養はんと欲すれども親待たず)という言葉がありますね。まさにあれです。不肖の弟子をお許し下さい。先生、ここでお別れします」
 いつの間にか、町外れに来ていた。川のせせらぎが聞こえた。すでに四隣には闇が広がり、無徳が男か女かも判別できない。キンモクセイの匂いがほのかに漂ってきた。
「無徳君、この川の上流をめざせば、あとは一本道だ。いかにも不気味ではあるね」
「いまのわたしには似合いです。先生、いつまでもお健やかに。奥さまにもよろしくお伝え下さい」
 無徳は一礼すると、足早に立ち去っていった。道友はしばらく佇んだ。無徳の跫音あしおとが静かに消えていった。それが、道友の無徳を見た最後となった。翌朝、刑事が訪れた。道友自身が無徳の落ち行く先を知らない。
「若いのにあんな立派な男はいなかった。諸君は、S教授なんかにたぶらかされずに無駄な追跡はやめたまえ」
 道友は、警察を煙に巻いた。M子は二度と無徳のことを口にしなかった。卒論を仕上げ、無事に卒業して郷里の高校の教師になった。数年後、同僚と結婚して二児の母となった。長男誕生の折り、便りを寄越した。徳哉とくやと名づけたこと、自分の今日の幸せは無徳さんの犠牲の上にあること、その後の無徳さんの消息をご存知ありませんか、などと綴ってあった。道友は、すぐに返事を書いた。
 ──無徳君の消息を知りたいのは小生も同じです。けれども、彼のことゆえ、その行方を消し去っていることでしょう。案ずることはありません。彼は逞しく生き続けているに相違ありません。
 と、末尾に書き記した。隣家の柏木幾三は、十年一日のごとく稽古日の道友宅に現われて、学生たちと囲碁将棋を愉しむ。たまに学生に身体の不調を訴えられると、その場で触診し、これこれの症状だろうと診立てる。これがよく当たるので、幾三に対する評価は文句なしの優である。
「道友さん、無徳君はどうなったろう」
「失礼ながら幾三さん、その台詞せりふは聞き飽きた。耳にたこができている……」
 道友は、その話題をきっぱりと打ち切るのをつねとした。学生たちは見たことのない無徳を、無徳さん、無徳さんと慕い、なかには、
「先生、ぼくの腕前は無徳さんに近づいたでしょうか」
 などと素朴に問う者もいる。そんなとき、道友は思わず落涙するのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?