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『物語』が持つ力

元配偶者との縁切りがほぼ完了しつつある今、いろいろと不思議に思うことがある。元配偶者と私はそれぞれに種類の異なる機能不全家族で育ってきた。元配偶者はいわゆる『冷戦型(家庭内別居)』、私は『内戦型(過干渉な母と無関心な父)』という機能不全家庭でのサバイバーだ。両者とも青年期に重篤な精神病を発症し、いわば『同病相憐れむ』状態でパートナーシップを結んだ。その後教科書通りの共依存関係に陥り、元夫は暴力をふるい、私は『いつかは良くなってくれるはずだから…』と分の悪い賭けにベットし続け、最終的に決別した。

機能不全家庭出身者同士でも、捕食者側に陥ってしまう例とターゲットとなってしまう例に分かれてしまうという点が非常に不思議であり、その分岐点は果たしてどこにあるのか、とぼんやり思っている。

己の半生を振り返ったとき、数々の小説、映画、ドラマ、アニメ、ゲームといった物語に出会えた幸運こそが彼と私の分かれ道だったのかもしれない、と思いいたるようになった。何も古典や名作文学中心に触れてきたわけではない。そこまで己は高尚ではない(とはいえ、ようやく古典を読める力がつきつつあるので勇気を出して飛び込むつもりだ)。

特に幼少時、宮崎駿監督作品を数年おきにリアルタイムで味わう僥倖に恵まれた。たぐい稀なるくじ運の持ち主である。母は思い通りにならないと半狂乱で叫び、未就学児に土下座を日常的に要求し、ことあるごとに『お前たち(子ども)のせいで生きる気力がなくなった!!!』と癇癪をおこし、気にくわないことが起きれば公衆の面前でも地団駄を踏む、という地獄の体現者であり、父は虐待を無視して彼の脳内にある『あったか家族』を妄信するというあまりに情けない『マイホームパパ』であった。

宮崎作品内で展開される父母(的存在)が子どもに向ける視線はとても優しかった。その場しのぎではない優しさがあった。
マンマユート団の団長(『紅の豚』)は『仲間はずれ』にしないために、子どもたち全員を誘拐するし、トトロのお母さんは病室でさつきの髪をすいてくれる、ユパさま(『風の谷のナウシカ』)は身を挺して怒り狂ったナウシカを止めてくれる、リン(『千と千尋の神隠し』)は千尋に礼儀作法を教えてくれる、おばさま(『魔女の宅急便』)はキキに特製のチョコケーキを作ってくれた、ドーラ(『天空の城ラピュタ』)はシータを抱きしめ、失った髪を『可哀そうに』といってくれた。そこには私が求めていた『大人』が確かに居た。『大人は子どもを護り育てるもの』という当たり前があった。私は原家族からは『真っ当さ』を教われなかった。私の両親は大人というにはあまりにも幼すぎた。けれども、幼少時に宮崎作品と出会えたことで断片的にでも『真っ当さ』を垣間見れたことは私にとってかけがえのない宝物だ。

狂母の亡き後、親子問題に関連する本をいくつか読んできた。そのほとんどは理論的なもので、確かに起きた事象を整理するには役立ったのだが、物語が持つ力はそれを圧倒的に上回る。宮崎さんが家庭人としてどのような存在だったのか私にはわかりえない。もしかしたら私の父と同じく家庭を顧みない『モーレツ』さだったのかもしれない。それでも、憎悪の塊としてではなく『ま、しゃーねーか』くらいに世界を捉えられているのは彼が作り出してくれた数々の作品のおかげであることは間違いない。

きっと人間は永遠に物語を作り続ける。
己のためでもあり、時を超えたまだ見ぬ誰かへの道標だから。

われわれには理解できないことが少なくない。
生き続けて行け。きっとわかって来るだろう。

ゲーテ/『温順なクセーニエン』第一集(新潮文庫『ゲーテ格言集』)


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