「非存在欲求」箕田(箕田海道)─存在と非存在の狭間

まえがき

箕田海道(箕田海道という名前自体が作家性を端的に表しており、実に面白いと思うのだ)とは、私が最初期から作品を追いかけ続けている同人作家であり、また商業作家である。数年間に渡る精力的な同人活動、さらに初の商業作品である「病月」(もちオーレとの共著)を経て、「北の女に試されたい」を連載開始。現在は、「北の女に試されたい-2nd trip-」と題して、一区切りついたのちの作品世界を不定期で連載している。

そのほか、「♀♀本」、♀♀本をさらにブラッシュアップした内容となっている「向日葵は東を向く」、「月形家の二人遊び」(一年ののち、さらにブラッシュアップされた完成版が発行された)、「おまえをリコーダーで殴りたい1・2・3」など。

さらに、「Doodle」というタイトルの、偏執的とも言える落書きを集めた画集。私はもともとその絵の持つエネルギッシュな印象に惹かれて追い始めた節があったので、これは今でも開く。

(これは余談だが、私が呉竹の製品であるCOCOIROというペンを使い始めたのも、箕田氏が使っていたことがきっかけであったような気がする。レターペンなのだが、インクの色の種類が豊富で、絵も描きやすい。線の強弱が欲しいがGペンは使いこなせない、インクの管理が面倒、というような方は試してみるといい。)


非存在欲求

ものをつくるということ

ものづくり、という行為自体、多様なレイヤーの重なりの上に立体的な像を結んでいるものだ。

同じく、「存在がしたくない」という言葉は多層を成す意味の重なりそのものであり、そこにどんな像が結ばれているかということには、ひとびとの主観が大いに含まれるところだ。

そうであるから、桂木の言葉に対する古賀と新見の言葉というのもまた、まったく違った見地からの異なる意見となる。他者である桂木を自分の尺度で理解しようとする古賀、自と他とを明確に切り分け、自分の欲求のみに目を向ける新見。

そして、一見してめちゃくちゃにも感じられる、桂木の二人への反応というものも、実際には二人の見方を反射したものでもある。

自と他の境界がはっきりとした、ある意味自己完結的でもある新見に対しては、桂木も自らの欲求を自己完結的に捉える。「相互理解が一切発生しない関係のうちらだけどそれでいいの」というセリフが、それを明瞭に示している。二人の間には相互理解が発生しない、故に、対話というものも発生することはない。そこに桂木は好ましさを感じてもいる。

対して、古賀と桂木との関係というのは、その全くの逆だ。古賀が自と他との相互理解を求めるから、桂木は自分の欲求に対して饒舌になる。これもまたある種の表現行為であって、「作るのやめればいいじゃん」という古賀のセリフへのアンサーそのものだ。

古賀は桂木の欲求を自身の尺度に基づいて捉える。それを反射して、桂木は自身の欲求を、理解してもらうための歩み寄りを伴った言い方で説明したりはしない。そこには、桂木と新見の関係性とはまた別の形で、相互理解は発生していない。

しかし対話はある。

それまで自身の欲求について語るだけだった桂木は、古賀に対して問う。「何を考えて作ってるの?」という問いは、二人の会話がようやく対話へと一歩前進したことを示す。

古賀のものづくりに対する姿勢は、他者の存在がそこにあるということを認めたものであり、自分が存在する以上、他者も当然存在する、という前提のもと成り立っている。自分の内にあるものを、実体のあるものとして表したとき、他者がそこに何を感じるか、どのように受け取るか。その姿勢は、三人の中でも最も表現者として自覚的であるようにも思える。

そして古賀は桂木に、「桂木が狂ったように作るキモいオブジェ見たい」「桂木が好きだし」と口にする。

桂木が非存在を求めているのは自己ではなく、他者の存在に対してではなかったか。

桂木は自分の存在を「例えばせめて脳から手が生えてる生命体になれたら」と口にする。つまり、桂木が言葉にしている非存在欲求とは、自分の存在を非存在にする欲求だ。

しかし、その内容をさらに聞いてみれば、「理解しようとされたくない」「私という存在が邪魔すぎる 他者にとって 製作物にとって 自分にとって」。しかし作るのはやめたくないと言う。それは実際のところ、他者の存在が消えてしまえば、全て解決されるのではないか。自分の存在がないということは、自に対する存在である他しか存在しない、自がないということは、他という概念もまたない。つまり何者も存在することのない、非存在の世界というわけだ。

自分の存在がなければものを作ることもできない。ならば、他者の存在しない世界へと行ってしまえば、自分の存在もまた定義するものを持たず、非存在の状態でものづくりを継続することができる。

そして桂木が嫌悪しているのは、古賀の「桂木が好き」という、他者の存在によって自己が定義され、また自己が他者へと影響を及ぼすことが端的に現れた、そのセリフそのものなのではないか。

桂木は何か重大な衝撃を受けたかのように黙り込む。そして涙を流しながら、「やだーーーー はやく存在しない空間へ行きたい」と叫ぶのである。

古賀のセリフは、圧倒的に、相互理解とは対極に位置するものだ。

ものづくりの姿勢というものが、自分の作ったものに対して自己(そして他者)の存在が邪魔だと考える桂木・自分の作ったものへの他者の存在を当然の如く考えている古賀・作ると言う欲求のみを持ち、自己や他者について関心を持たない新見、の三つの極によって、立体的な像をなして表現されているのである。

それは自己と他者との関わり、対話、相互(不)理解についての物語そのものだ。


私とあなたが存在するということ

前回のあらすじ:最も恐れていたセリフを古賀からかけられてしまったが故に発狂してしまった桂木

私は箕田さんの作品について述べる時、よく「理屈と感情のスライド」という言葉を使うのだが、これもまさしく物語が「スライド」している。階段を一段一段登るように、段階を踏みながら物語が先に進む、という形を取らない。スーッとスライドした先に、いつのまにか急速に物語が収束し、何かよくわからないが進んで行っているのだ。

存在を失いたいという桂木は、念願叶って脳に手が生えた気持ちの悪い何かとなる。やはりと言うべきか、その状況を新見は瞬時に受け入れ、鍛金で作った帽子のような何かしらを、カポッと桂木の本体らしき部分に被せる。発言にせよ作った物体にせよ、桂木の意思に沿う形で表現を行うのはいつも新見なのである。

古賀はといえば、姿かたちのせいで表舞台には姿を表すことのできない桂木に代わって彼女の顔となり、桂木と世界との間に立ち、桂木の存在を守る盾となることを、自分の存在の意味として見出している。

20年の月日が経ち(時間軸までもが大きくスライドしている)、現状に対して我慢ならなくなった古賀は、一息に20年間の自らの思いをぶちまける。

驚くべきことは、古賀は自らが桂木を「理解」していると自認していることだ。20年前は明らかに理解を諦めていた古賀が、20年の月日でもって彼女を理解しているという自認をするまでにたどり着いていたのだ。20年前も確かに理解を示そうとしていたのは古賀ひとりであった。なるほどその努力が実ったのだというのも頷けることであるだろう。

「あなたにとって私は何なの」という問いは、古賀が桂木を理解したからこそ、20年もの間秘められてきた言葉であったに違いない。桂木が嫌悪する存在は、自己による他者の定義、また他者にある自己の定義であって、その暴力性と言うものを理解した上で、古賀は桂木に全身全霊の力でもって、その問いを桂木にぶつけたのである。

そしてその時になって、桂木は「古賀と同じ目線で生きていきたい」と口にする。「どんな姿であっても何があっても私がどうであろうと止められないんだね」、桂木は存在するということを、世界と自分という大きすぎる視点から離れ、古賀と自分、あなたと私という世界の構成される最小単位の視点で受け入れる。存在と非存在をめぐるこの物語において、納得の結末、最高の大団円だ。

しかし、この物語は最後(のりしろというものがあるが)の1ページで、その唐突な展開が全て古賀による妄想の走り書きであったことが明かされる。異常である。

そこに現れる桂木は、実在の桂木である。古賀に理解を示すこともなく「キモ」と一蹴する。そしてまさにそのこと自体が、存在と非存在、自己と他者とのどうしようもない相互不理解と、相互理解について、ささやかに真実を示していると言えよう。


滝と佐保

共有と相互理解

さて、存在と非存在についての表題作と共に、「滝と佐保」という全く別の話が収録されている今作。

ものづくりについてでも触れたように、何かひとつのものでも、多くのレイヤーが重なり合い、時に別々の側面を、時に重複した側面を表現しながら、その像を結んでいる。

今作に「滝と佐保」が収録されていることもまた、(ページ数を増すという意味以外にも)存在についてを多面的に描く、その一面として働いているのではないだろうか。

滝と佐保との出会いはカラオケ店だ。滝は「一人の時間が何より好き」と言いながらも、カラオケに一緒に行くことで、同じ何かを共有する相手が欲しかったことを明かす。

そして佐保もまた二人でのカラオケの時間を全身で楽しんでいることを示す、二人で歌うカットが1ページまるまる使って描かれている。

佐保の卒業式ののちに二人は話す。その静かな対話は、カラオケを歌うのと同様に、二人にとって自然なものなのかもしれないし、あるいは滝の言うように、普段とは違う佐保の様子から現れている一瞬の静寂かもしれない。

言葉より先に涙が溢れた佐保は、「先輩今日静かですね」と言った滝に対して「たたみかけるように」話し始める。それは人と人との、相互理解の話であり、別れについての話でもある。共有すること、理解し合えたり理解し合えなかったりすること、そういったものが、今にしか存在しない、発生しないものであることが、佐保にはわかっているのだ。

そして滝がまさしくその人だ。「全然わからん」上で、滝は佐保と他の人々との対話を引き寄せようとする。それは相互不理解だ。佐保が今を共に過ごしたい、共有したい、理解し合えたり理解し合えなかったりしたい、と思っている相手というのは、実際のところ滝なのである。それを滝は理解できない。しかし二人は今まさに同じ時間を共有していて、それで全てが正しくそこにあるのだ。

カラオケボックスで「旅立ちの日に」を歌わされる滝も、歌わせる佐保も、互いを理解し合ってもいれば、明らかな不理解もある。そこに、存在すると言うこと、他者と何かを共有し、その先で理解し合えたり理解し合えなかったりすること、そういう営みそのものが描き出されている。


あとがき

多くの作家は同じテーマ同じ話を延々延々とする生き物であり、箕田(箕田海道)もまたずっと延々と同じ話をし続けている作家だ。存在について、自我について、自己と他者について。さらに細かいところまで言うと、女性同士の関係性について、血縁関係について、めちゃくちゃ善良な男についてなど。

何度表されても、その表現には常に真実が現れていると思う。意味のわからない支離滅裂なものだと思う人もいるだろう。表現とは常に不理解にさらされるものだ。

現在、商業作品に同人活動と多忙な日々を送られている箕田さんへエールを送るとともに、これからも変わったり変わらなかったりしながら、表現活動を続けてくれること、また豊かで幸福な日々を送ってくれることを祈って。


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