鶏から!鶏から!鶏から!
――本を三冊買う、という楽しみかたの方針を、現在の僕は確定されたものとして持っている。
これは、最近読んだエッセイの冒頭部分を抜き出したものである。書き手は、作家の片岡義男。その独特の言い回しに、あるいはピンときたひともいるかもしれない。
この文章のツボは、ひとことで言うと「本を買う」ことにではなく、本を「三冊」買うということに目をつけたところにある。じっさい、片岡義男のエッセイというと、こうした身近なモノやコトを題材にしながらも思わぬ視点から考察をくわえて新鮮な印象を引き出すものが多い。
この「本を三冊買う」と題されたエッセイも、その意味でまさにそんな“片岡義男ワールド”の真骨頂といえる。
本を三冊買うということの意義を、まず、彼はこう表現する。
「三冊だと買うときにもっとも楽しい。おそらくそのせいだと思うが、買ってからずっとあとまで、その楽しさは持続する。だから、楽しみかたの方針、という言いかたを僕はしている」
本を買うときには、積極的に三冊ずつ買うよう心がけている、というわけだ。
言われてみれば、というのはこれまでそんなことまったく考えたこともなかったからだけれど、ぼくも古本屋で買い物したり、あるいはまたちょっとした旅行に出かけるといったとき、無意識のうちに本を「三冊」選んでいることが多い。二冊ではなんとなく物足りない気がするし、かといって四冊ではあきらかに多すぎる。漠然とながら、「三冊」の楽しさという感覚をぼくもまた共有しているといえるかもしれない。
では、なぜ三冊であるべきなのか? その三つの理由を片岡義男はこう説明する。
まず、持って帰るとき三冊なら「邪魔にならないし、重くもない」。単行本であればそれなりにかさばるような気もするが、彼が好んで買うような洋書のペーパーバックならたしかにそうだろう。
さらに、どんなに高くても三冊におさめておけば支払いが「一万円を超えることは珍しい」という経済的な理由を挙げる。これもなにを選ぶかによって変わってくるが、ぼくもまた古本屋で買い物をする場合、だいたい三冊で二千円くらいというひとつの目安を持っていたりする。
だが、なによりいちばんの理由は選ばれた三冊が醸し出す「取り合わせ」の妙にこそあると彼は力説する。
たとえば、古本屋で目につくまま選ばれた三冊からはこれといった脈絡が感じられないのがふつうである。むしろ、でたらめにさえ見えたりもする。けれど、「この三冊が、いったいなぜ、どのような理由で結びつくのか。そう思いながらその三冊を眺めると、そこには他の誰でもないこの自分がいることに気づく」と彼は言う。
なるほど。たしかにはたから見ればでたらめでも、そこにはそのつどの自分なりの「関心や興味の領域」が映されているのはまちがいないだろう。だからこそ、「三冊によって作られる三角形のなかに、そのつど自分がいる」ということになる。
片岡義男はまた、べつのエッセイでこんなことも言っている。そこで彼が取り上げるのは、日ごろから愛用している安価ながら性能のよい万年筆だ。「僕自身そのものだと言っていいこの万年筆から僕を見ると、僕とはなになのか」と彼は問いかける。三冊の本とおなじように、一本の万年筆のなかにも自分がいるはずだ、そういうわけである。
そして、そこから彼は「僕は基本的には実用の人なのだ」という答えを引き出す。さらに、その実用的な筆記具をもって「自分にとって切実な事柄を、さまざまなかたちで文章にしていくのが、僕という人だ」と結論づけるのだ。
こんなふうに、ふだんあまり意識していないモノやコトを通して自分自身を再定義してゆくというのは、なるほど、案外おもしろいかもしれない。
* *
そういえば、むかし渋谷ではたらいていたころ、ごはんとみそ汁に好みの総菜を三種類選んで定食にすることができる、その名も《三品》という定食屋がありよく先輩に連れていかれた。
総菜を三品、といってもぜんぶ揚げ物でかなりなボリュームになる。戦闘モードじゃないとなかなか足の向かない店ではあったが、その店がお気に入りだった先輩は、いつもカウンターのおばちゃんに向かってこう叫ぶのがお決まりだった。
鶏から!鶏から!鶏から!
いや、なんというかいきなり、である。秒でこの店のアイデンティティーを破壊しているのではないかと心配にもなるが、当人はまったくどこ吹く風といった様子である。そもそも鶏のからあげが食べたいのなら、いくらでも「鶏のからあげ定食」をメニューにのせている店があるじゃないか。
しかし、いまにして思えば、というのはつまりこの片岡義男の文章を読んでみてということだが、先輩はおそらくおかずを3つ選ぶことの楽しさを味わっていたのではないか。ここは百歩譲ってそう考えてみよう。そう、そのとき先輩は「鶏から」を三つ選んだ。
それに引きかえ、この場におよんで栄養のバランスなど考えて野菜(といってもナスか玉ねぎのフライ)も入れておこうなどと言っている自分がじつにせこく、器の小さな人間に思えてくる。まあ、しかしあの皿の上にそびえる鶏からマウンテンは思い出すだけでも胃がもたれるが。
さて、こうなってくると、その「鶏から!鶏から!鶏から!」にも先輩なりの人間像がにじみ出ていると考えるのは当然だろう。鶏からがつくる三角形の中にはたしてどんな先輩の姿が像を結ぶのか?
いっしょうけんめい考えてみたのだけれど、けっきょく浮かんだのはただ「不健康な偏食の男」ということだけであった。まあ、そういうことで。
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