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水菓子を買いに

およそ独身者の食卓にのぼらないものといえば、バナナを除くくだものの類ではないだろうか。

言うまでもなく、くだものが嫌いなわけじゃない。くだものが、というより正確に言えばその売られ方が一人という単位に見合わないだけだ。

たとえば、分かりやすい例だとスイカがある。記録的な猛暑だったこの夏、さすがにスイカのひとつも買いたい気分に何度もなったが、ひとりでは1/2個でももてあましてしまう。あるいは小さくカットしたものも売られていたかもしれないが、やはりスイカはある程度の大きさのものを自分で切り分けたい。バナナは皮を剥くところから、スイカは包丁で切り分けるところから“食べる”行為がはじまる。

ほかに、ミカンやイチゴ、さくらんぼなどもひとりでは買いにくい。ぜんぶ食べきらないうちに傷んでしまうとなんとも悲しい気持ちになる。

その点、リンゴはもちろん、バナナも一本から量り売りされているフィンランドのスーパーマーケットは独身者にやさしいシステムだった。他の国ではどうなのだろう。日本でも可及的速やかに導入していただきたいところ。


幸い、いまの職場ではちょくちょく差し入れでくだものをいただく機会が多い。りんご、柿、みかんなど。柿はたいがい自宅の庭に実ったものだ。見てくれはいまいちだが、しっかり秋の鄙びた味わいがする。

先日は、スチューベンという品種のブドウをいただいた。
甘みの強いブドウだが、皮と実のあいだに爽やかな酸味が感じられるのがいい。口に皮ごと放り込んだブドウを噛み締めた瞬間、ああ、この味なつかしい、とうれしい気分になった。むかしよく食べたブドウの味そのものだったからである。くだものは、やはり甘みだけでなく適度な酸味があるといっそうおいしく感じられる。この甘みと酸味との絶妙なバランスこそが菓子とくだものの違いだと思うのだ。


そういえば、くだものには《水菓子》という呼称がある。
明治、大正あたりの小説など読むようになる前は、《水菓子》なるお菓子が存在するのかと勘違いしていた。たとえば水ようかんのような、あるいは葛切りとかかき氷のような、そういった夏場の菓子を《水菓子》と呼ぶのだろうと漠然と想像していたのだ。

じっさいのところは、江戸時代になって《水菓子》ということばは広く使われるようになったようだ。そもそも《くだもの》ということばには間食、軽食といった意味もあり、そのため加工した菓子といわゆる果実とを区別する必要から《水菓子》ということばが生まれたらしい。
とはいえ、江戸を中心に使われていたためそこまで一般的にはならなかった。《くだもの》から軽食や間食という意味が弱まることで決着がついたともいえる。


だが、《水菓子》ということばも捨てがたい、と独身者はかんがえる。

独身者の食卓にフルーツの優先順位は依然低いままだが、何かの折に、ちょっと凝った洋菓子や値が張るパンを買うかわりにくだものを買うという選択肢なら十分ありうるからだ。そのときの気分に《水菓子》ということばはとてもしっくりくる。

こんど見かけたら、あのしっかりとした甘みと爽やかな酸味のバランスとが絶妙なブドウを買ってみよう。

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