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ほんの立ち話くらいのこと

6月○日 落語を聴くことは


落語を聴くことは、ちょっと旅することに似ている。


落語は、ひとを知らない時代のどこか知らない場所へと運んでゆく。


そこには身近な誰かに似たひとや、あるいはふつうだったらけっして出会えないような人たちがいて、生きることにまつわる多彩な機微に触れさせてくれる。


それはときに人生の復習に、またときに予習にもなる。なにより気持ちをふっと軽くしてくれる。


それに、もっともらしく《ダイバーシティ》なんて言い出すはるか前から、落語の世界ずっと多種多様な人びとが助け合いながら生き生きと暮らす“やさしい世界”だった。

ひさびさの上野・鈴本演芸場で、むかし家今松師匠の「品川心中」を聴く。


新幹線や飛行機ではなく、あえて急行列車で行く旅のような、ゆったりとした時間の流れに身をひたす心地よさがそこにはあった。


6月○日 短歌をかじる夏


周囲に、冬眠ならぬ《夏眠》の宣言をする。


夏のあいだ、「お約束できないので約束はしかねます。ごめんなさい」というのがその趣旨。夏休みではなく、あくまでも“夏眠”なのだ。


《夏眠》の原則は、とにかく生活から《ねばならない》をできうる限り駆逐することである。


たとえ楽しい約束でも、手帳に予定を書き込んだ時点でそれは強制力をともなった義務になる。


なんだか夏バテ気味でかったるいなあと思っても、約束をした以上は無理を押してでも行かなきゃならない。


根がそういう思考法なので、最初から約束しないほうが気楽だし相手にも迷惑をかけずに済む。だから、夏の手帳は余白だらけなほうがいい。

それにしても、いつにもまして長くなりそうな今年の夏。


この《夏眠》の時間をつかって、すこし短歌の世界に触れてみたいと思っているところだ。


以前、知人から現代短歌の歌集を借りて読んだとき、なるほど短歌にはスナップ写真を撮るような味わい方があるのだな、と知ったのだ。これはいいかもしれない。

記録用の短歌。


とはいえ、見よう見まねで詠んでみたところでいかんせん短歌の知識がゼロすぎて思うようにいかない。


そこでこの時間にいろいろな歌人の歌集など読んでみようと思った次第だ。
おすすめがあったらぜひコメントで教えていただけるとうれしいです。


図書館で借りたアンソロジー


6月○日 季節外れのスノードーム


ひとと会う約束があり、仕事のあと銀座に出る。


浮世離れした夜景を見下ろしながら、あまり居心地よいとはいえない時間をすごした。


なんだかスノードームに閉じ込められたような錯覚にとらわれる。


6月○日 ブランクーシ《空間の鳥》


京橋のアーティゾン美術館でブランクーシの展覧会をみる。


もっとも惹きつけられたのは、展示室の最後に置かれた《空間の鳥》というブロンズの彫刻作品。


ブロンズといっても、ほかの作品同様、入念に磨き込まれたそれは金のような光を放っている。


また、余分なものを極限まで削ぎ落したそのフォルムからは肉体から解放された魂の気高さが感じられる。


ブランクーシのアトリエを訪れたインドのマハラジャがこの作品を購入。その後、白と黒の大理石でできた二羽の《空間の鳥》の制作を依頼した。


マハラジャは、亡き妃をしのんで、この三羽の《空間の鳥》からなる瞑想の場をつくろうと構想していたが実現することはなかったという。

夜明けを告げる金鶏が、静寂のなかひっそりとたたずんでいる。その毅然とした姿はどこか庭を支配する番人を思わせる。
マハラジャも、彼が啼くまでは夢のなか亡き妃と戯れることができるのだ。その時間がいつまでも続けばよいのに。
展示された《空間の鳥》の頭頂部は、照明の加減だろうか、黄金のとさかのように輝いてみえた。


7月○日 うお座


連日の真夏日、猛暑日にすでに干上がっている。うお座だけに。


7月○日 エンターキー


雨が小康状態になったのをみはからって職場を出たのだが、ようやくバスが来たころにはつぎの雨雲がやってきてさっきまでと変わらない豪雨になっていた。


ドカンドカン音をたてて矢継ぎ早に落ちる雷は、むしろさっきよりもひどくなっているようだ。さながら爆撃のようである。


けっきょく、降りるはずのバス停をやりすごし終点まで行ってしまう。
雨宿りがてら期日前投票をすませ、ファミレスでメキシカンピラフを食べた。ドリンクバーも3回おかわりした。


なにを飲んでもおいしくないのでファミレスのドリンクバーは“高い”と思う。


一時間をすぎたころ、ようやく小止みになったので“二度目の”帰路につく。


日常が、エンターキーを押されたように思いがけず“改行”される。なんだか浮世離れした一日だった。

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