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ほんの立ち話くらいのこと

5月○日 不甲斐なさ


夜、ひさしぶりに会う知り合いと銀座で食事をし、別れた後しばらくひとりでぶらぶら散歩する。

暑くもなく寒くもなく、しかも湿度が低い。こんな夜、一年のうちにそう何回もあるものではない。最高。


午後9時を回れば、渋谷や新宿とちがって潮が引いたように街から人影が消えるのも銀座の好ましいところ。


“今夜の銀座、最高だよ。ちょっと出てこない?”


ひとりでも、まあ、不満はないのだけれど、そんなふうにサクッと連絡ができお茶のひとつも(下戸なのでお茶でひとつよろしく)つきあってくれる友人がいたら人生はもうすこしカラフルになっていたにちがいない。


そういう人間関係をついぞ築けなかったのは自分の残念なところだと夜の銀座でつくづく考えた。

5月○日 唯一無二


有楽町の東京国際フォーラムで、GW恒例の《ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン》がはじまった。

とはいえ、仕事だったりチケットの抽選にはずれたりで今年はほんの形だけ1公演のみ参戦した。


今回聴いたコンサートの出演者は初めて実演に接するアーティストだったが、残念ながら自分の好みとはすこしばかり違っていた。


ただ、そういう〝あたりはずれ〟もまた自分にとってはラ・フォル・ジュルネの愉しみの一部になっているというのもまた事実。


じっさい、いわゆる有名どころの競演を目玉とする〝音楽祭〟とちがって、ここに足をはこぶ人たちの多くはアーティストのネームバリューや演奏される曲目の有名無名にさほどこだわっていないようにみえる。


自分もふくめ、ラ・フォル・ジュルネという文字どおり〝お祭り騒ぎ〟に参加することこそが最大の目的となっているからである。


そして、それが結果的に未知のアーティストや楽曲との出会いにつながっているのがこのイベントの唯一無二なところであり素晴らしさなのだ。


知るよろこびはなににも勝る。


5月○日 高速道路を歩く


午後からまたしても銀座。


知人を誘って《GINZA SKY WALK》という高速道路を歩くイベントへ。


これは楽しすぎた。


5月○日 とてもじゃないが真似できない


芸能人が、一日教師として高校で授業を受けもつという韓国の動画コンテンツがある。


その番組に、IVEの日本人メンバー・レイが出演した回をみた。

綺麗な瞳をしたコンスニ先生が教える日本語 [IVEレイ] | My Favorite Teacher ep.5

いまや韓国で芸能活動をしている日本人は少なくないが、彼らの努力や精神力にはまったくもって頭が下がる。


おなじ日本人同士でさえまともに議論ひとつできない偏狭な考えの大人たちが対立を煽って溜飲を下げたつもりになっているのを横目に、二十歳そこそこの若者が身ひとつ相手の懐に飛び込んで文化の壁を低くすることに貢献しているのだ。


大谷サンもよいけれど、そういう若者たちがまだまだこの世界にはいるということを多くのひとに知ってもらいたいと思う。


5月○日 答えあわせ


押し入れから、学生のころ読んでいた本を無雑作に詰め込んだ段ボール箱が思いがけず出てきたのでなつかしい気持ちで拾い読みする。

なかに数冊、吉田秀和やドナルド・キーンによる音楽エッセイがふくまれていたのだが、当時はたとえ興味をそそられたとしてもそこで取り上げられているレコードを気軽に買うような余裕などもちろんなくて、ただ指をくわえてそこに鳴っているはずの響きを想像するほかなかった。


その点、いまはストリーミングサービスのおかげで気になったそばからすぐさま当の作品にあたることができる。なんて贅沢で幸福なことか。


でも、貧困な想像力でもって必死に聞こえない音楽に耳を澄ましていた時間が無駄かといえばまったくそうとも言えない。


活字でしか知りえなかった音楽をあらためて聴きそのすばらしさに感銘を受けたときなどは、なんだか何十年ぶりかに答え合わせをしているような気がしてそれはそれでうれしかったりするからだ。


ところで、ーーー無条件で推薦できるレコードが二枚ある。と、ドナルド・キーンが薦めるのはメゾソプラノのフレデリカ・フォン・シュターデが若いころに吹き込んだレコードだ。


さっそくAppleMusicで探したところそのうちの一枚であるフランスのオペラアリアばかり集めた作品がみつかった。すごくいい。


ドナルド・キーンが言うとおり、可憐な歌声の魅力が十二分に伝わるのはその選曲の妙にありそうだ。


ふだんあまり歌ものは聴かないのだけれど、これがきっかけとなってまたひとつ新しい扉が開いた気がしている。

5月○日 タガがはずれる


それにしても、ここ最近、晴れた日はかならずといっていいほど強風が吹き荒れる。


以前はここまでじゃなかったような気がするのだけれど、いったい地球になにが起こっているのか。


もしかしたら太陽の活動と間接的に関係があったりするのだろうか。


お天気にかぎらず、巷を賑わす事件や事故など見ても、全体に〝常軌を逸している〟というか、いよいよこの世界のタガがはずれてしまった気がしてなんだか落ち着かない。


5月〇日 至難の業

なんとはなしに立ち寄ったブックオフで自分にとってはこれ以上ない掘り出しものを見つけてしまい、すこしでも早く頁を繰りたい気持ちを抑えきれずカフェの一角に陣取る。


とりあえず短いエッセイをひとつふたつ読んだらすっかり満足した。


デパ地下で衝動的に買った総菜を家に帰るまで待ちきれず途中の公園のベンチで開けてつまみ食いする、なんていうことはさすがになかなかできるもんじゃないが、ほんとうはそういうのがいちばん楽しかったりするんだよな。


やるのはたやすいが、スマートにやりおおせるのはなかなかの至難の業なのでこれはなかなか実行できずにいる。


5月○日 ひとには役目が


けさの「日曜美術館」は3月に亡くなった彫刻家・船越桂氏の追悼特集ということで、二十年ほど前に氏をとりあげた番組が再放送された。


番組中、インタビューにこたえて語っていたことが印象的だったので以下に抜き書きする。

人にはそれぞれ役目があるという気がするんですね。

怒りと悲しみとをぶちまけるようなかたちの役割を与えられているのは僕ではないような気が、よくします。

わりと静かに、それでも肯定していきたいというかたちをとるときは、なにか僕なりに少しは役目を果たせるような気がするという、そんな思いがあります。

喜怒哀楽は人間だれにでも備わっている感情にはちがいないけれど、だからといって身近な誰かの感情に合わせたり同調圧力に屈したりする必要はないのかもしれない。


「役目」という言葉には、だから、自分の感情を他人まかせにしないという意志が感じられる。


うまく言えないが、自分の感情は自分だけのものであり、それゆえに尊い。


氏のつくる彫像がまとう〝凛〟とした空気とあいまって、なにかがストンと音をたてて腑に落ちた。

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