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テセウスの自転車、あるいは遠未来の肉体と魂

先日、また自転車が壊れたので、今日は歩いて自転車屋さんまで行って修理されたものを引き取ってきた。
前回はパンク(チューブ交換)、今回はホイールの破損と、短期間に連続して壊している。
高校生だったかの頃に世話になっていた自転車屋さんに「キミよく自転車パンクさせるねぇ」と言われて以来、自分は他の人と比べて自転車を壊す頻度が高いのだろうかと疑っていたが、ここまで連続するのは珍しい。あまりにも短期間に修理を頼んだものだから、きっと自転車屋さんの方も「またか」と顔を覚えてしまったのではないだろうか。もしそうだとしたら少し恥ずかしい。

自転車を取り戻した私はそのままそれを駆り、近所のスーパーで食料品等を買い、帰宅して手洗いうがい、ソルティライチで水分補給もそこそこに、この記事を書いている。

今日起こったことと言えばそれくらいである。これでは記事にするには文字が足りないので、少し難しい話をしようと思う。

これを読んでいる読者のみなさんは「テセウスの船」という言葉をご存じだろうか。
ギリシャ神話に登場するテセウスという人物が航海した際に……という言葉の意味の話は、Wikipediaさんに丸投げしてしまうとして(いつもありがとうございます)、要するに「複数の部分によって構成される実体Aが、その部分を全て入れ替えられたとしたら、その実態Aは果たして実体Aのままか、それとも違うものか」という、同一性を問う思考実験のことである。

自転車が壊れているので自転車屋さんまでは当然徒歩で、私はこのテセウスの船の話を自転車に置き換えて考えながら歩いていた。
さすがに部品の全てが入れ替わるような壊し方はしていないが、私はこの自転車をかなり長い事使っているので、「最初の自転車」ではない部品、部分も当然にある。
逸話のようにすべての部品が入れ替わったわけではないが、私にはすでにこの自転車(私が今日歩いて取りに行き、乗って帰ってきた自転車)とかつての自転車(買った時点のものであり、一回目に壊した時のものであり、先日壊した時のものでもある)が同一のものであるとは思えない。
なぜだろう。自転車としては全く変わりなく機能しているのに。
風雨に晒され錆が浮いたからか、ロクに整備もしないで土やら蜘蛛の巣やらが付いたままにしているからか、あるいは使い潰されて構成する金属やゴムがすり減ったからだろうか?

そうではない。錆を落とし土や巣を払い、摩耗した部分を補ったとしても、そうではないのだ。
補うという行為そのものが、それを別のものに作りかえている。
「テセウスの船」、ないしテセウスの自転車について、少なくとも私が到達しうる結論の一つとして、「初めの実体Aと構成された部分の全てが(あるいはその一部分でさえも)入れ替わった実体は、別のものである」と考える。

まだ余白があるのでさらに難しい話をしよう。
テセウスの船の思考実験が人体に例えて語られるのは非常によくあることだ。
曰く、「人体を構成する細胞は数ヵ月で全て入れ替わるから、数か月後には厳密には別人」だとか、あるいは「睡眠して自意識を失うことで連続性が失われ、同一性も同様に失われる。すなわち昨日の私と今日の私は別人である」だとか、そういう考え方もありえる。
もっといろいろ考えてみよう。

例えば、私が何らかの事故で肢体の一部を失い、機械なりなんなりの義肢によってそれを補ったとする。
このとき、事故以前の私と、事故以後の義肢によって補われた私は同一のものだろうか。
先ほどのテセウスの自転車の考え方に則れば、私の結論は「否、二者は違う人物である」となるはずである。
そのはずだ。少なくとも私の出した結論から考えるのならばそれが最も妥当な考え方だ。

しかし、「そうじゃない、私は私だ」という叫びが私の中にあることも認めなければならない。
なぜそう思うのだろうか。主体的な問題だから?

では今度はこうしよう。私は何らかの事故で脳に回復不能なダメージを受けた(脳以外の部位は完全に無事であるとする)。しかし、事前に人格をコピーした培養脳ないし人工知能によってそれを補った。これならばどうだろう。
こちらに関しては私は素直に先ほどの結論に従って、「事故以前の私と事故以後の「私」は別人だ」と言えそうだ。
なぜ、そう言えるのだろうか。


今日は「外を歩く」ということを久しぶりにしたので、普段感じない音や色を存分に味わうことができた。
自転車を漕いでいてもそうした気分(普段の景色がやけに鮮明で美しく見える)になることはあるが、それとはまた別格だ。
特に、肌を風が撫でていくのがとても気持ちが良かった。私が老いて、老いて、さらに老いても、この感覚だけは失いたくはないものだ。

肉体の劣化が懸念されるので、脳を移植してサイボーグの義体を手に入れ、自分の中の歴史と照らし合わせながら歩こうか。それとも、今日この日の感性が失われないように脳をコピーしておいて、老いた心は消去して、様変わりした景色を新天地気分で歩いてみるというのも面白いかもしれない。
今日と同じ風は吹かないだろうが、その日にはその日の風が吹いていて、「私」はそれを心地よく感じることができるだろう。
あるいは。

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