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25歳から始める! 絶望

望みが絶たれると書いて絶望、そのまんまの意味の言葉だ。
とはいえ、夢や希望に裏切られたり、今までの努力が水泡に帰したり、周りの環境に対する無力感を感じたりなどなど、一口に絶望と言ってもその種類は様々だ。
人の数だけ意識があり、意識の数だけ感受性があることを考えると、そういった経験を「絶望」と一括りにしてしまうのは乱暴ですらあるかもしれないが、私は世にひしめく感受性全ての代弁者になることはできないので、ここでは単に「絶望」という語を用いる。
この記事を読んでいる人は、私が絶望という語を用いるたびに、任意の絶望的事態を当てはめて、共感ないし反感を持ってほしい。


人間はいつ絶望するのだろうか。上にあげた例のような事態が起こった瞬間に絶望するのか、その事態に衝撃を受けて、後々振り返ってみた反省を絶望と呼ぶのだろうか。
一旦それはどちらでもいいものとするが、ほとんどの人間は生きているうちに絶望を経験する。
「その時私は絶望した」という風に表現、記述する人間は圧倒的に少数かもしれないが、それでも記述されざる経験達の中には絶望と呼んで差し支えないであろうものが混ざりうる。
絶望とは普遍的なものであり、必ずしも文字や音にして「絶望」と述べる者たちが独占しているわけではない。

順調に人生をこなしていくと、絶望と呼べるような衝撃にであることは少なくなっていくかもしれない。
それは例えば慣れによるものだったり、感受性の変化によるものだったりする。人間は徐々に己を取り巻く環境に適応し、ストレスに慣れてしまったり、ストレスを避けることができるようになったりするためだ。
それでも完全に絶望する機会が失われるわけではない。例えば、ストレスに慣れてしまったこと自体に絶望するといった事態が発生しうる。

絶望することに慣れてしまったことに対して絶望する、というシーンを例にとったとして、その絶望は瞬間的で一時的なものだろうか、それとも時間的延長を持つ持続的なものだろうか。
いや、この問いは無意味だ。人はまさしく瞬間的に絶望し、その後しばらく絶望的気分に侵され続けるということがしばしばあって、私はまさしくそのただ中にいるのだということを言いたいのだった。
以上で書いてきたことは私の愚痴のための前座に過ぎなかった。

とはいえこの気分のきっかけ、私が瞬間的な絶望と呼んだものが直近でいつ起こったものなのか、私は思い出せない。
ここしばらく強い絶望的感情を感じたことはなく、慢性的に希望を感じることができていないだけだ。
絶望的気分、と呼ぶのも少し憚られる。絶望的と呼ぶにはささやかすぎるし、気分と呼ぶには私という自我に根付きすぎている。
無気力、無関心、そういった人格を長いこと維持しているだけで、絶望と呼びうる衝撃は長いことご無沙汰だ。

まさしく生ける屍、近頃は「自分は生ける屍ですよ」という主張することしか書くことが見つからない。
世界に対して主張したいこと、表現したいことが全くないのだ。
このままだと以降の私の記事は永久に自己紹介を繰り返すだけのものになってしまう。

幸いながら、私は自傷癖も自殺願望もないため(このような卑屈で傲慢な自己言及を続けるのは精神的自傷であるといえるかもしれないし、無気力状態を放置するのは消極的な自殺かもしれないが)、この気分が一過性のものだと信じて気を紛らせ、明日はこんな気分じゃないはずだと信じて眠ることができる。
そうすることしかできないのである。絶望的なことに。

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