見出し画像

文字通りの親知らず

そういえば昨日の記事で、初めて私の実母が逝去したことを文字にしたと思う。

私の父母が離婚したのは私がまだ物心つく前で、私はその経緯を全く知らないまま、母が不在であることを特に疑問に思わずに育ってきた。
離婚をきっかけに父が実家に戻って三世帯家族となったため、仕事で育児に専念できない父に代わって、私は幼少期を祖父母に育ててもらったのだった。

小学校何年生のころだったか、父は再婚し、継母が家族に加わった。
私は突然増えた家族に対して特に動揺したり感慨を抱くことはなく、相変わらず祖父母の元でご飯を食べ、読書やゲームを趣味にし始めたために自室で一人で過ごすことが多くなった。
内向的な私にとっては、父も継母も祖父母も、自分の時間に侵入してくる存在としての認識が強かったと思う。
向こうは愛をもって育て接してくれていたのだろうが、私の方では愛というより疎ましさを感じることが多かった(これが無礼だということは分かっているし、私の方から完全に愛着がないというのも嘘になるだろうことも把握しているし、双方が互いにいがみ合っていたということもなかった。単に私にそういう子供だった時期があって、大人になった今も大して認識を変えずに私が一方的に突き放しているだけで、向こうに非があるということが言いたいわけではない)。

私は長らく実母の存在を忘れていたが、大学生になるころ、ふと父が「母と会うか」と提案してきた。
大学生になるということを一つの節目として、けじめをつけるべきだと思っていたのか、それとも息子である私にその権利があるからという理由だったのかは知る由もないが、ともかく父は何とも言えない表情で私にそう提案してきたのだった。

当時の私は実母に会うことにしたらしく、私が引っ越す直前に会う機会が設けられた。
そうして私ははじめて実母の顔や声を知ることになったわけだが、これに関しても特にどうという感情の動きはなかった。
向こうはずっと泣いていて(離婚の原因は彼女の側にあったようで、そのことをひたすら詫びていた)、私はいたたまれない気持ちで泣いている母の対面に座り、彼女の話を聞いたり、進学して何がしたいかについて質問されたりしていた。

父の車に揺られて帰っている途中、私は「なんで会うことにしたんだろう」といったようなことを考えていたと思う。
私は母に会ってみたかったのだろうか? そうであったのならば、なぜ私は実際に会ったときに何の感動も覚えなかったのだろうか。
会ってみたかったわけではなく、単に父に提案されたことに従わなければならない気がしたのだろうか。そう考えたほうが妥当な気がする。
私は父や継母や祖父母や妹に対してそうであるのと同じように、実母に対して特別な執着を抱いていなかった。

また時が過ぎて2020年、実母の余命が長くないことが、本人の連絡によって明らかになった(そういえばいつ連作先を交換したんだっけ)。
私はやはり動揺したりすることもなく、ひたすら返事をどう返したものか考えていた。
実母はもうすぐ死ぬらしい。それについて私はどう反応するのが適当なのか全く分からず、「そうだったんだ」「お大事に」「残った時間を悔いなく過ごしてね」みたいなことを思いつき次第言っていたはずだ。

そして2か月前、実母は亡くなった。丁度私はそのころから歯痛に悩まされており、「これがほんとの親知らずってやつか」とか陳腐なことを考えていた。このときもやはり、実母の死を知らせる叔母からの連絡への返事に困るくらいで、私の情緒や生活には何の影響も現れなかった。
時間的近接関係によって「親知らず」と呼ばれている歯が、実際には母の死とは無関係に痛んだ。

私は確か最初の親知らずを抜いた時のことを記事にしていて、歯科助手さんに「抜いた歯は持ち帰りますか」と問われて「持って帰ります」と即答したということについて書いた。
考え方によってはこの歯は私と実母の希少な縁の一つかもしれない。そう考えると、今後抜いてもらう歯(あと4本も抜くことになっている)の処遇に関して少し悩みが発生する。
私が歯を持ち帰ると即答したのは恐らく好奇心によるものであり、帰宅してその歯を眺めては「コレクションにしようか」とか「歯は鉄よりもモース硬度的に硬いとかそういうことを絡めて記事の一本でも出来そうだ」とかそういうことを考えていた。

しかしこれが「母との繋がり」とかそういう属性を帯び始めてしまうと、少し煩わしさのようなものを感じずにはいられない。
私はなぜこんなに「関係」を遮断したがるのだろう。
眉唾な考え方だが、私に散々欺かれたにも関わらず未だに私を見捨てないでいる父と、離婚したことによって私に迷惑をかけたとあんなにも嘆いていた母から、どうして私のような冷血な人間が生まれてきたのだろうか。
私はこの冷血さ、無関心さ、無気力さゆえに社会に出ることもままならずにいる。父母が、そして多くの人々が当然に持っているものを私は持っておらず、今日もまた現実感のないままに命を消費した。
罪悪感も、字数の肥やし程度にしか感じていない。なぜ、私はこうなったのだろう。

これから抜く親知らずの扱いはどうしようか。
捨てる(あるいは持ち帰らない)というのも捨てないというのも何かしらの意味を生んでしまううえに、選ばないということもできない、ストレスのかかる状況だ。

近々スマホを買い替える。私は他人との交流の履歴に興味はないので、LINEの履歴を保存して復元したりはしないだろう。
母との文字上の付き合い、通話による付き合いは、消えてしまえばあとは忘却に任せるままとなる。
ならば、親知らずについてもそうしたほうが良いのではないか。
痕跡は残さず、記憶の浮き沈みだけを縁とする。
そうなってようやく、私は彼女のことを相対的に愛することができる気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?