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13年。振り返るには少し遅そうだが。

13年が経った。3月11日。
そこに怒りや憎悪を抱いてるわけではないが、特別な日であることは確かだ。

所々記憶は曖昧で、けれど所々再現できるほどに鮮明な記憶がいま私の頭の中に浮かんでくる。幼少期の記憶はときについさっきのことよりも強烈で頭の片隅に居座り続ける。

大きく視界が揺れたのはつい数歩教室を出たときだった。地震=机の下、8歳の私は必死に机の脚を押さえながらも、教室でひとり立ち続ける先生に変に感心していた。

それからは初めてで驚きの連続だった。がちゃがちゃで足の置きようがない家、その代わりにビニールハウスに泊まったこと。停電、断水でロウソク生活をしたこと。久々に届いた新聞の写真。嫌でも覚えてしまったコマーシャル。がれきを見に行ったこと。そこで家に船が乗っかっていたこと。それと、あのときたしかに雪が舞っていたこと。

「復興」とついたイベントは当時の私にとっては有名人に会える機会、平凡な田舎の地元にスポットが当たる不思議な経験だった。ただ騒いで、ただ楽しんで。そんな子どもの姿は正解だったのかもしれないが、あまりにも無知だった。

「死」と初めて真剣に向き合ったのはそれから2年後の祖父の死だった。震災当時の私を驚かせたのは崩壊した町並みで、日々報じられる死亡者数、行方不明者数は私の想像の範囲を超えた出来事であった。けれどこの「死」の悲しみが数千人、数万人ある。そう気づいたときようやく震災の被害を少しは理解できた気がした。

私にとって本当の意味で震災の影響を受けたのは、中学生の時期だ。多感な時期にふと考える自分の存在意義。「生きている意味ってなんだ」それは疑問というより、自らの無力感を責めるものであった。震災時、他の人の避難を優先して犠牲になったひと、惜しまれながら去ったひと、、、今となっては恥ずかしい話だが、ひとりこっそりと涙を流していた。

「当たり前のことが当たり前ではなくなった」多くの人からそんな表現を耳にしたし、私自身もそう感じている。追い打ちをかけるかのように津波、原発事故。未曾有の事態はあまりにも多くのものを容赦なく奪っていった。そんな残酷な災害が私にもたらした教訓である。

復興支援の海外派遣プログラムは私に外の世界を教えてくれた。それは私に故郷の魅力を気づかせてくれた。まだ、誰かのためになれているとは思えない。それでも見えてなかったものに気づき、頭の中が少しずつクリアになっていく。強いて言えば、自分のためにはなっているだろうし、生きているという実感がある。

13年。私はいまデンマークにいる。強さを知ってるわけじゃないけど、私はたしかに強くなったと思う。大切にしたいと思えるものがある。目指したいものがある。

今日はデンマークの海に、
「いまこの瞬間を精一杯生きていく」と誓い、「やっぱり海が好きだ」と叫びたい。

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