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フルボトルの赤ワイン


格好のいい飲み方、とは何だろう。


酒好きであれば、そうありたいと誰もが願う事だと思うけど、皆が願う事と言うのは大概がなかなか出来ない事だ。


しかし、願っても出来ないと言う辺りに、酒を飲むと言うことの、可笑しみや味や悲哀があるのがまた面白いと思う。



橋本さんと言うお婆ちゃんは、オープン間もない6時過ぎに、ひとりでやってきた。


店にエンジンがかかり出すのは、早くても7時過ぎからだったので、その時間店には僕しかいない。

店長とオーナーと3人で、誰か倒れたら店休日と言う、全速力の綱渡りみたいな営業をしてた頃の話だ。


あきらかに一見さんとわかる橋本さんは、メインのカウンターを勧める僕に、ニコニコと「あっちは駄目ですか?」と聞いた。


店のカウンターはL字になっていて、Lの長い方がメイン、短い方がサブのカウンターだ。

当然スタッフはメインの方に居るから、よっぽど込み入った話があるお二人とか以外には、サブカウンターは人気がない。


当然お一人様をご案内したりはしない。


「いえ、構いません。どうぞ。」


という事情はあくまで店側の言い訳で、接客がしにくいからと言うのが実情だ。


「ごめんなさいね。私、橋本と言います。市外から電車で来て帰る前に一杯飲みたかったんですが、なにせ店を知らないもので。あなたさっき看板出してたでしょう。それが見えたんで、ついてきちゃいました。」


オーダーの前に名乗られたのは、後にも先にもこの時しかない。
橋本さんは70代くらいに見えたが、終始ニコニコと話す姿が可愛らしかった。


「さて、そうねえ。赤ワインはあるかしら。」


もちろん、ある。
ただ、店の形態上どうしてもウイスキーとカクテルの需要が多かったから、グラスで出せるハウスワインは1種類しか用意がなかった。


「ございますが、ハウスワインはひとつだけでして。コート・デュ・ローヌのパラレル45と言う銘柄です。口あたりは良いので、飲みやすいかとは思うのですが。」


そうじゃなくって。


と、橋本さんは壁に並んだディスプレイ用の空きボトルを指差した。


「ボトルで頂きたいの。」


もし、これから数年後の僕だったら、何か違うことを言ったかも知れない。


ただ、この頃はオーダーに忠実であること以外の余裕は、まだ無かった。


飲みきれるんだろうか、とは思ったけれど。


フルボトルの赤ワインは、当時5種類あって全てがボルドー産。

店長が選んで揃えた銘柄は、安いもので三千円ちょっと、一番高いので五千円くらい。

ワインリストなどは無いから、僕は5本全部を橋本さんの前に並べた。



「あらあら。ご親切に、ありがとう。」


いやなに、ボトルを見ながらじゃないと、説明が出来なかっただけで。


「せっかく持ってきて貰ったのに、ごめんなさい。この中で一番高いのを下さい。あとよかったらチーズを少しだけ貰えますか。」



ミモレットは長期熟成のハードチーズ。
サンタンドレは白カビのチーズ。


2種類のチーズをメインカウンターで切りながら、僕は橋本さんの後ろ姿を見ていた。


所々にレースの飾りの付いた服装は、ちょっと幼い趣味にも見えたが、スツールの下で少しだけ足をぶらぶらとさせている彼女には良く似合った。


チーズの説明をうんうんと聞いて橋本さんは言った。

「ご迷惑じゃなかったら、一杯付き合って貰えませんか。何だかひとりで飲んでるの、申し訳なくって。」


お客様からお勧めされたら、絶対に断らない。
これは、店と僕との共通したポリシーだ。


赤い酒の入ったグラスを小さく合わせて、彼女はふふふ、とまた笑った。


「初めてなんですよ。こういうお店に来るのも、ひとりもね。若い頃からずっと一遍やってみたかったんだけど、なかなか勇気がでなくって。私達の頃は女がひとりでお酒をのんじゃいけないって時代だったから。今の子達はたくましいわね。あはは、だめだめ。そういうことを言うから年寄り扱いされちゃうんだわ。年寄りなんだけどね。ふふふ。」


すこし残ったワインを空けて、橋本さんはグラスを差し出す。


逆さに刺したコルクを取って、僕はボトルから2杯目を注いだ。


「主人がね。あ、もう居ないんだけどね。」


橋本さんは、大事な所で話を止めて、大きめにひとくちワインを飲んだ。


「あら、私ばっかりごめんなさい。飲んでくださいね。」


売価で五千円するワインは、店長のチョイスだから間違いはないんだけど、僕はまだ飲んだことがなかった。

初めて口にするその味は、どっしりとしたフルボディで、ご馳走になってるのが後ろめたいくらい、美味しいと思った。


「お互い年を取って時間が出来たら、こういうお店に連れてってくれるって言ってたんだけど。結局それも出来なくってね。ただ、どうしても来てみたかった。だからね、今日は頑張ってみたの、私。」


チーズの最後の一切れを、グラスのワインと一緒に口に入れ、橋本さんは目を閉じた。


しばらくそのままでいると、彼女は止めていた息を吐きながら、僕を見てまたにっこりと笑った。



「あー、楽しかったし、美味しかった。お店の方、他にもいらっしゃるんでしょ。残り物で失礼ですが、後はお仕事終わりに皆さんで飲んでくださいね。電車の時間があるので帰ります。お会計をお願いね。」


支払いを済ますと、彼女は店の扉の前で、僕に向き直った。


「こんなお婆ちゃんの話に付き合ってくれて、ありがとう。ボトルをね、カウンターにずらっと並べてくれたの、あれが一番嬉しかった。ごちそうさまでした。」

そして、子供のようにペコリと頭を下げると、地上に上がる階段をタン・タン・タンと靴を鳴らして上がっていった。

それが、最初で最後だったのか。

それから橋本さんには会ってない。


あれから20年以上が経つから、彼女が今もお元気かどうかはわからない。

ご存命であるかすらも。


バーテンダーはすれ違い、その人の一瞬の横顔を見るだけしか出来ない。


でも、あの日。

どこか少女のようでもあった彼女の、颯爽とした格好の良い酒の飲み方を、僕はすれ違いながら見た。


あと何百回。
可笑しみや悲哀にまみれた失敗を繰り返せば、あんな風になれるのだろうか。


十数本に増えた、フルボトルのワインをそらで説明できるようになっても、その自信は手に出来なかった。


それは、バーテンダーを辞めてしまった今でも。


橋本さんは、地下から上がる階段で振り返らなかった。


その前だけを見て駆け上がる視線を、とても眩しく思う。




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