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さよならチーフ


「誠実な接客」


字面で見ると、眩暈がするような正しさを感じる。

ただ同時に、どこか教科書的で白々しさも感じる言葉でもある。

飲食業、特にお酒を扱う仕事はこの「誠実な接客」と言うのが難しい場面に遭遇しやすい業態だ。

一般化するのは卑怯だから我が身を鑑みれば、僕は「酔ってたから」で自分の無作法や失敗や不義理を、なし崩し的に許したことがある。



すごい、ある。



ただそれはあくまで、泥のような眠りから醒め、不味いばかりの煙草をふかしている昼過ぎに気付ける事で、その状況の只中にいる時、自分は礼儀正しく間違いもなく真っ当だと思っている。


いや、ちがう。


そんな事、考えもしていない。



僕が26だったから、チーフは35だったはずだ。


このくらいの年齢差で、しかもまだ兄弟子という言葉の残る当時の業界では、普通なら当然僕とチーフの間には、断崖の様な階級差が存在する。


例え冗談でも、おふざけやタメ口が許される世界ではない。



普通は。




「マジで辞めるんすか?店。店長今日休みだったけど、会わないまんまで?ホントにー?」


朝方5時の居酒屋。


主に飲食店従業員御用達の店のカウンターに、僕らはいた。 


空いたビールのジョッキを脇にどけ、入店と同時に目の前に置かれた、キープの焼酎ボトルをチーフが睨んでいる。


「お前さ、一人で来てコレ勝手に飲んだろ?明らかに前より減ってるし。怒らないから正直に言え。」


仕事終わりの飲み会は大体週に2日。完全にチーフの奢りで、僕がお金を払った事は1度もない。



「するわけ無いでしょ、そんな事。え、なにその目。疑ってんの?信じられん。そんな言うならマジックで印でも付けときなさいよ。」



おお、そりゃいいと。

チーフは本当にお店の人にマジックを借りて、残った酒の位置に線を引いた。日付まで入れて。


僕より30センチ近く背の低いチーフは、居酒屋のカウンターに座っていると余計にちいさく見えた。


「お前さ、明日からはもっとちゃんとやれよ。チーフバーテンダーなんだから。」


すでに酔いの浮いた目で、金色の焼酎を手酌でグラスに注ぎプラスチックのマドラーで混ぜる。


酔ってはいても、手付きはバーテンダーのそれだ。


「やってるでしょ、ちゃんと。1日12時間、週1休みで3年間。いい加減新人扱いは止めてくださいよね。」



いつもは水割りのチーフが、ロックのグラスをひと息に空けた。製氷機の軽い氷の音がする。



「じゃバーテンダーの仕事ってなんだ?言ってみろよ。」



なんだ絡まれてるのか、とは思ったが本人の言う事が本当なら、それも今日で最後だ。



「接客7割、技術は3割。でしょ?いつもチーフが言ってるじゃないっすか。あと何だ、お帰りは必ず笑顔で帰すこと。これ川柳か交通安全の標語みたいっすよね。前から思ってたけど。」



馬鹿には覚えやすいだろ、と言って何本目かのマイルドセブンに火をつける。ゆっくりと吐いた煙がチーフの表情を隠した。



「なら聞くが、誠実な接客ってなんだ?」



はいはいはい。それも知ってる。



「そりゃ、常にお客様に誠実に接するってことでしょ。真面目に冷静にって。ずーっと隣で見てきたんですよ。ホント、馬鹿みたいに真面目なチーフの仕事を。」


最後だから、言ってみる。
ふざけながら、憎まれ口に混ぜて。


いつだって、この人は目の前のどんな酔っ払いにも誠実だった。

誠実で、真剣で、どうしようもなく不器用だった。

そんな人、このちっさいおじさん以外に僕は知らない。


気恥ずかしさが無かったのは、多分焼酎のお陰だ。


「それは、違う。」


え、とチーフを見た。


一瞬混じった視線をボトルに戻して、チーフが静かに言った。


「より誠実であるべきなのは、自分の仕事だ。お客様は変化する。それは手が出せない。どうにも出来ない時だって勿論ある。おれらがどうこう出来るのは、所詮自分だけだ。だから、自分の仕事に誠実に。恥ずかしくないよう、逃げないように。」


僕のハイライトは、灰皿の上で長いまま灰になっている。


ところで。


と、チーフがまたこっちを向いた。


「やっぱりお前勝手に飲んだだろ。このラベルの上まで絶対残ってたはずだ。」





居酒屋を出ると、朝の陽射しは容赦がない。

相変わらず1円も払わなかった僕は、それ以外の意味も込めてチーフに頭を下げた。


「ま、色々言ったけど楽しくやれや。バーテンダーの第一命題は楽しそうに見えることだからな。おれらが楽しげに見えないと、お客様は絶対楽しくない。と、おれは思う。」


生ゴミを狙ったカラスの声のなか、チーフが歩きだしながら背中越に手を振った。


「じゃあ、おつかれさん。」


言おうと決めていた大声の「ありがとうございました」は喉に張り付いたまま出てこない。


僕は黙ったまま、チーフの小さな後ろ姿を見ていた。


もう。頭は下げない。見てるんだ。見えなくなるまで。



くるりと、踵を帰し。

チーフが戻ってくる。


「携帯、店に忘れた。」


まったく、最後の最後の最後まで。




さよなら、チーフ。









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