「地に足つける」を誤読する
慣用句というものは、いともたやすく(これも)、使われる。一種のサンプリングであり大喜利的な一面もある。素ですっとそのことばが出てくることは、蓄積のなかのひとつの個性とも言えるが、己のフィルターを通さず何も考えず使うのもどうなんだろうとも思っていた。
そんななか直近で「地に足をつける」もしくはそれに近いニュアンスの表現を3回、しかも違う場面で、出会ったので記しつつ、一体この慣用句には何が込められているか、足を止めて考えていこうと思う。
1.近所のカレー屋さん
※すごくうろ覚え
先日運よく食べることに成功したカレーがとてもおいしかった。
おいしい、と形容していいものか疑いたくなる程に普段の腹の満たされ方が違う感覚があった。断言できるのは量ではなく質での満足。満たすというか充たすの方がしっくりくる表現・・・?満足ではなく、充足・・・?
みたす論争はさておき、おいしさの要素として店主さんが言ってたのは、地に足をつけるような、香辛料の間をつなぐ食材の存在 とのことだった。香辛料は植物の実であったり種子、地下に伸びる茎を乾燥させるなどしたものがほとんどらしい。つまりは、植物の端である。それらを組み合わせておいしさを生み出すそうだが、ある程度の限界があって、その壁をとっぱらうために中間の食材でつなぐと、おいしさが引き立つらしい。その食材も見せてもらったのだが、完全に名前を失念してしまった。
その話を聞いて思ったのは、バンドの帯域である。ドンシャリではなくミドルも足してくことがパンチを高める一種なのだと、大学時代の教えを思い出したのであった。
つまりはここでいう地に足をつけるとは、中間を意識することだったのかと思う。資本主義にまみれた私が思い描く、地に足のつけるための手法は、地盤の固まったコンクリートみたいな礎をつくる、もしくは、いい刺さり方をするサッカー選手が履くような靴を買うといった外的環境を整えることばかりを考えていたような気がする。まわりの環境がかがるがわる昨今、己の体幹を鍛えて立ち続けること。
2.うみべのストーブ/大白小蟹
短編漫画集の中の一作「海の底から」に出てくる。
※上に張っているのは同じ漫画に収録されている別の作品だが、全編通ずるところもあり、その雰囲気がとても好きである。
大学時代の友人3人での飲みの席にて、地に足をつける表現が出てくる。ウェブ記事や歌集を出すかすみん、文学賞の最終候補に残ったあいぴー、そして文学から離れ卒業からずっと企業ではたらく桃。久々に集まり、近況報告をする3人。かすみんとあいぴーは、桃に対し、「桃はほんとすごいよ」「ちゃんと就職してバリバリ働いて」「地に足つけてしっかり生きてるんだもん」と言う。その言葉を受けた桃は嬉しそうではなかった。自分は働いてる間は息が詰まりそうに海底の地で足つけて歩いていて、一方かすみんとあいぴーは銀色に光って輝きながら泳ぎ続けるしかない回遊魚だとたとえていた。
ここで出てきた地に足つけることは、否定的なイメージであった。海底において地に足をつけることは、かえって己をうごきにくく、閉じ塞がったどんよりとした暗さがある。
3. Waste The Moments / downt
先週末行ったdowntによる自主企画ライブもまた素晴らしかった。
downtのMCにて「まわりの自主企画を見ていると特別な場所や異色の組み合わせなど奇を衒うものが多いが、自分たちは、自分たちの気に入ったバンドを呼んで、いつものライブハウスでやって、地に足のついた企画にしたかった」と言っていた。
ここでの地に足ついたとは、奇を衒うとは対義的な、ひねらずまっすぐに、という印象を受けた。
downtのライブは何だか、水中を深く深く潜っていく印象がある。深海魚を彷彿とさせるジャケにひっぱられている部分もあるが、それ以上のものがある。音源のリヴァーブ感?とも思ったが、ライブは真っ向なバンドサウンドで、3人のごまかしない正直な音が届いてくる。今回は特に、中域としてのギターの存在が立っていて、バンド全体が塊としてぶつかってきた。さっきカレー屋で思い出したことであってつまりは最高だった。地の足のついているバンドだと改めて思った。
4.そして私がたどりついたチとは
地に足をつけるを旅してきたが、水の中をさまよってしまった。
もはや「地」ではなく、「池」ではないか。そうなれば「つける」は「浸ける」である。池に足を浸ける。未開の水中に足をつっこんでいく景色が見える。
アウトドアサウナで湖をくりぬいた水たまりにつっこんだ記憶がよみがえる。本能で冷たいと感じ、あったまった体が抗って、火照りが加速する。入って初めて知る感覚であった。
世の中にはいろんなチがある。地に足をつきながらも、根をはることなく歩み続けて、池に足を浸けて生きていく。
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