センパイライフストーリーリライト版:ケイシリンさんのケース
NPO法人glolabでは、「センパイのライフストーリー」をわかりやすい日本語に「リライト」し、読解教材化しています。
その背景については、日本語の力が今はまだ弱くても、「センパイのストーリー」から学べる読解教材を作りました!(理由編、使い方編)をご参照ください。巻末に、①本ケースのPDF資料、②語彙リスト、③ワークシートを用意しています。ぜひご活用ください!
さて、第一弾は、ケイシリンさんです。
日本語がわからなかったので、孤独でした
ケイシリンさんは、フィリピンから日本に来ました。言葉や文化が違う国で生活するのは大変です。自分の国と違う環境で、「私は何もできない」と思う人もいます。ケイシリンさんもそんな経験をしました。
でも、ケイシリンさんは目の前の問題を一つ一つ解決しました。そして、前に進みました。今、日本で働いています。ケイシリンさんのことを紹介します。
ケイシリンさんの両親は、フィリピン人です。ケイシリンが小さいとき、お父さんが亡くなりました。それから、先にお母さんが日本に来ました。小学校2年生のとき、ケイシリンさんは弟と一緒に日本に来ました。それから2年間、日本で暮らして、フィリピンへ帰りました。中学1年生のとき、お母さんがまたケイシリンさんを日本に呼びました。それからずっと日本で暮らしています。
初めて日本に来たときには、とてもいい経験をしました。小学生で日本へ来たときは、日本語はほとんどわかりませんでしたが、学校で友達がたくさんできました。先生はいつもケイシリンさんを心配してくれました。
しかし、2回目に日本に来たときは、「生活の壁」を感じました。中学校1年生のとき、お母さんがケイシリンさんを日本に3か月だけ遊びに来ないかと誘いました。ケイシリンさんは、すぐにフィリピンへ帰るつもりでした。しかし、そのまま日本に住むことになりました。ホームシックになりました。友達もできませんでした。中学2年生くらいのとき、いじめられて、自殺したいと思いました。
学校が終ってから、日本語の勉強をしましたが、なかなか上手になりませんでした。学校の授業がわからなかったので、とてもつらかったです。そして、高校受験の日が近くなりました。先生が「今の成績だったら、高校に行けないかもしれません」と言いました。
ケイシリンさんのお母さんは、ケイシリンさんが高校に行ってもいいし、行かなくてもいいと思っていました。だから、お母さんからのプレッシャーはありませんでした。でも、そのとき、ケイシリンさんはとても焦っていました。
「フィリピンの社会は学校に行けない人を下に見ます。学校に行けなかったら、親ががっかりします。それで、毎日、悩みました。」
フリースクールに参加して自分の居場所をみつけました
そんなとき、SNSでフリースクールを知りました。フリースクールには外国にルーツを持つ子どもたちがいました。みんなも日本語や進路について悩んでいました。ケイシリンさんは受験のために、日本語や他の教科の勉強を始めました。
「フリースクールに通って、とてもよかったです。フリースクールは中学校や日本語学校と全然違います。友達も親が日本で仕事をしていたり、日本語がわからなかったりしました。そして、みんなも悩んでいました。私と同じ状況の友達が多かったです。私だけじゃないと思いました。
フリースクールの先生たちは外国にルーツを持つ子ども達に日本語や他の教科を教えるのがとても上手でした。私達のことを理解してくれました。そのおかげで高校に合格できたと思います。」
そのとき、ケイシリンさんは学校や仕事、将来のことがあまりわかりませんでした。「フィリピンに帰りたい」と思っていました。高校に入るために、友達が一生懸命、勉強していました。私もまず高校に入って、それから将来について考えようと思いました。ケイシリンさんは、「悩みすぎると、日本語の勉強に集中できません。ステップ・バイ・ステップで行こうと思いました。」
高校生のとき、自分を表現できるようになりました
ケイシリンさんは、とても努力をしました。学校の成績もよくなりました。そして、外国文化コースのある高校に入学することができました。そこにはフィリピン、ブラジル、中国、イギリスなど、さまざまなルーツを持つ友達がいました。中学校と高校は全然違いました。
高校でダンス部に入りました。高校生活はとても充実していました。日本語の勉強もできるので、コンビニやファストフード店などでアルバイトしました。ケイシリンさんにとって、アルバイトは日本語の勉強ができて、お金ももらえるのがよかったです。
でも、やはり日本語は大変でした。高校3年生になりました。次の進路を考えなければなりません。日本語が十分ではなかったので、選択肢は少なかったです。
「学校では英語でずっと勉強していました。日本語はネイティブほど上手ではありませんでした。英語の先生にしかなれないと思いました。それでずっと悩んでいました。」
そのとき、友達のお父さんが「日本では大学を卒業することがとても大事だ」と教えてくれました。そこで、獨協大学を目指しました。獨協大学には英語学科があります。また大学に入ってから将来について考えようと思いました。
このように、ケイシリンさんは目の前の問題を一つ一つ解決してきました。ステップ・バイ・ステップで進んできました。選択肢は少なかったです。その中で一番いい道はどれかを考えました。そして、前に進みました。
大学を卒業する前に、就職活動が始まりました。そのときも、ケイシリンさんは迷っていました。自分が何をになりたいか、わかりませんでした。英語の先生になろうかと思いました。でも、新しいことに挑戦したいと思いました。
「今まで日本に住んで、アルバイトもして、日本語も勉強しました。だから、もっと日本語を勉強しながら、仕事をしたいと考えました。そこで、まず外国人の生活を助ける会社で働きました。」
外国人が日本で家を借りるのは大変です。審査が厳しいです。そして、保証人を探すのも難しいです。ケイシリンさんの会社は、家を借りる人の保証人になります。問題があったとき、会社が助けます。ケイシリンさんの仕事はお客さんが家を貸したり、借りたりするとき、通訳をします。初めはアルバイトでしたが、正社員になりました。
正社員になってから、ビザの書類を作る仕事をしました。書類を作るのはあまり得意ではありませんでした。そして、次は人と会う仕事がしたいと思いました。「日本語を使う仕事、営業の仕事に挑戦したい」と思って、同じ会社の中で、営業に変わりました。
ケイシリンさんの会社は、仕事をしたい外国人を他の会社や施設に紹介していました。他の会社の人と交渉することが多かったです。交渉するとき、敬語や、日本のビジネスマナーがわからなかったので、仕事は難しかったです。
「日本のビジネスマナーがわからなかったので、不安でした。恥ずかしかったです。でも、私は自分を日本人だと思って、仕事をしました。失敗もしました。その度に反省して、日本語やビジネスマナーを勉強しました。」
営業の仕事をする前、外国人への差別がないかと心配していました。しかし、差別はありませんでした。ケイシリンさんは「日本語ができれば、何も問題ない」と思いました。実際に仕事をしてみなかったら、これはわかりませんでした。
ケイシリンさんが初めて日本の会社で働いてから、2年が経ちました。これまで営業の仕事を経験してきたので、自信がつきました。それで、次は外資系の会社にチャレンジしたいと思いました。前より仕事の内容は厳しいですが、給料はもっと高いです。そして、外資系の人材コンサルタント会社に転職しました。
「フィリピンに住んでいる親せきにずっとお金を送っています。給料が高くなったので、これから余裕ができると思います。」
あなたがやりたいこと、あなたの居場所は必ず見つかります
ケイシリンさんは今も日本で頑張っています。でも、日本に来てから、つらい経験もしました。外国にルーツを持つ子どもたちには、このつらい経験をしてほしくないと思っています。
「これから日本で外国人がどんどん増えると思います。でも、学校などでいじめも多いです。私はそれをなくすために、コミュニティを作りたいです。」
ケイシリンさんから外国にルーツを持つ子どもたちにアドバイスがあります。
「もし、あきらめたいと思っても、違う方法を見つけてほしいです。今は選択肢が少ないかもしれません。でも、5年後、10年後に必ず選択肢が増えます。何でも挑戦したら、必ずやりたいことが見つかります。あなたの居場所も見つかります。いろいろな人からアドバイスを聞いて、行動することも大事です。」
どうしてケイシリンさんはつらい経験を乗り越えることができたのでしょうか。
それは、とてもつらかったとき、自分の居場所を見つけることができたからです。周りの人のアドバイスを聞いて、行動したからです。そして、少しずつですが、一歩一歩前に進んだからです。中学生のとき、ケイシリンさんは10年後の自分を想像できなかったでしょう。目の前のことを一生懸命したら、将来の道ができるはずです。
読解ワーク用資料
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