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世界一静かなプロテスター。市川沙央ほどの前衛芸術家はそういない

最後の聖書の意味がわからない人に

ハンチバックの読み方って(解釈って)3つできる、というnoteを書いたのだけど、ここでは、解釈①の「現代神話としてのハンチバック」をもう少し解説してみる。

小説の世界には一人称の小説か(「私は…」で綴られる)三人称の小説か(「陽子は」「透は」……と小説内でも視点が変わる)、あるいは神様視点の小説か、という技法的な用語があり、ハンチバックを「神様視点の小説」と言ったら、「ハァ?」とめっちゃ訂正されそうであるのだが、私はあえて「いや、ハンチバックは神様視点の小説です」と言いたい。無論、3種のうちの一つの解釈に立つならば、という補足つきだけど。

小説を書いたことがない人にはどうでもいいような定義上の言葉の意味と矛盾しても、人が感覚的にわかる表現として、「神様視点の小説」という言葉が一番わかりやすいと思うから。

要は、小説世界の一番高いところにいる意識の「存在」は誰か、という話である。

ハンチバックのあらすじと構成

読んでしばらく経っちゃった、という人向けにさらりとハンチバックのあらすじとざっくりとした構成は、こちら。


- 渋谷のハプバーの体験レポート的な冒頭にはじまるが、それはすぐに 『井澤釈華』という重度身体障害者がベッドの上から書いているということが明らかになり、そこからは井澤釈華の語りの彼女自身の物語となっていく。

②コグの旧約聖書の引用

③『紗花』の語る、一編
- 風俗店で働く『紗花』にモノローグの主人公が変わる。客との行為のなかで、『田中』と思しき人物は紗花の兄であり、田中は障害者の女性を殺して刑務所に服役中であることが語られるおさらい

 ①の時間の間、神様は姿形を現さないように存在し、地上の住人である釈華の一人称「私」と、釈華の紡ぎだすネットの世界を通して、小説が進行する。 

そこには彼女の健常者を中心とした世界への憎悪と怒り、社会が「人間の女」として定義するものの中心にあるものへの羨望を経て、倫理的に重篤な問題を孕む(と作家が認識しているからこそ、これは創作という体で世の中に提出されたのだが)願いを釈華が抱くようになる経緯が記される。それは、妊娠し、中絶を経験すること。なぜなら釈華の体は妊娠や出産には耐えられないが、受胎し堕胎するところ「まで」なら可能であると彼女は踏むからだ。彼女は、その禁忌的な願いを叶えるべくヘルパーの男性に金銭での取引を持ちかけ、彼は合意するが、彼女の願いは去就せずに道半ばで終わり、哀しみの吐露で一幕が終わったとき、突如、聖書の引用が挟まる。

神の意志としてそこに表現されるそれは、神様がさばきを下すという意思の表明であり、それは一見難解に見えるが、エゼキエルのストーリーが何か解説する教会の言葉を読むと、だいぶシンプルに入ってくる。

“この世の人々は、目に見える『力』に憧れます。エゼキエルのストーリーでは、それが「ゴグ」という名で登場します。しかし、神は自分の力を誇って弱者を虐げる者にさばきをもたらします。自分の力を誇るゴグにさばきを下すというストーリーです” 

(太字は筆者によるもの)

 「ゴグ」というのは「自分の力を誇って弱者を虐げる者」。(すごい教養がないと読み解けん……当然私もなんのこっちゃだったくち)釈華の「力」は経済力で、田中「力」者は健常者性で、そしてここでの弱者は、胎児。

 妊娠と中絶まではしてみたい、という自己中心的な欲望に駆られた釈華が、金という力への欲望に駆られた田中と結託する「ゴグ」。続く最後のパートでは、語り手の視点が、釈華から田中の妹である「紗花」に代わり、釈華は死に、田中は殺人罪で服役中であることが、風俗嬢「紗花」の言葉からわかる。 

その最終幕からは、釈華と紗花の非対称性が一つの行為を挟んで浮き彫りになるが──この物語に、完全なる「かわいそう」な人は登場しない。

神の目前で繰り広げられる「愚かさア・ラ・カルト」

健康な肉体とスタイルに恵まれた紗花は、釈華が望んでも得られなかった「瞬間」(受胎に繋がる瞬間)をいとも簡単に手に入れ、釈華が妄想した「生まれ変わったら摩擦で金を稼ぐ女になりたい」を具現化するが、それは金に守られた釈華が必要としなかった、金を稼ぐための行為。しかしどんな金のためにその行為があるかと言えば、ホストに入れ込む金であることが推測でき、そこに読者の憐憫を誘う余地はない。

それぞれが人生で恵まれたものと恵まれなかったものを持ち、そのなかで苦しみ悩む姿を描く短編集だとしたら、それはそれぞれが呼応し合う「愚かさア・ラ・カルト」であり、神の目前で繰り広げられるその短編集のなかで最も醜悪な行為(中絶を目的とした受胎取引)が神の怒りに触れ、さばきが下ることで、語り手が生存者へと変わった。

エゼキエルの話は、「生きる」ことにもがいている人に対する語りかけというテーマのものだという。

神は、「嫌われ、野に捨てられた」者に対し、衣服を与え、必要なものを与え、「生きよ」と語りかける。でも愚かな人間は、自業自得で滅亡に向かう。神はそれでも慈悲をかけ続けるが、神は自分の力を誇って弱者を虐げる者にさばきをもたらす。

立川福音自由教会

市川沙央氏によると、聖書の引用シーンは、海の波がザッバーン!している映像の上に引用文の白文字がダーっと流れるイメージ、らしい
(こんな感じかな↓)

世俗(教養とお下劣、社会史と一個人の意識が交錯する『小説人間界』の階層)のさらに深層のレイヤーでせめぎ合ってるものって、神と人間という構図だったんか……。(あまりの凄みに酸素が足りなくなってきた筆者) 

神父様でさえ、わからないほど難しい

 さて、ここでやや気の毒なのは作家である。なぜならこの芸術は神父様でさえわからないほど難しく(あるいは日本の文芸批評家が少しおサボりしていたが為そのようなナラティブの流布が欠如しており)、彼女の見せた神への最大級のリスペクトは、本家の方々にさえ理解されていないからである。ある牧師の方は、思い悩み、その責任感からこんな文書を教会のHPに発表している。

“最新の芥川賞受賞作 市川沙央氏の「ハンチバック」を読みました。一回目読んだときは、正直、「何か、気持ちが悪くなる……」という感じばかりが残ってしまいました。ただ、小説の最後に、何の説明もない形で、聖書エゼキエル38、39章の抜粋がありましたので、どうも捨て置けないという気持ちになって再度読みました。……(中略&エゼキエル書の口語訳を丁寧に解説した上で)……市川さんが、そのような意味でこのエゼキエル書を引用したのなら感謝なのですが、普通の読者には、そのようには決して読めないだろうと思うので、敢えて記させていただきました。

立川福音自由教会

ザッパーン!

(悲)

ちなみに神父・牧師の友人などおらず、自力でこのテキストを読み解けるう教養など到底持ち合わせていない私がなぜこの引用をつたなくも自分なりに解釈できたかは、ほぼこの牧師さんのしてくれた同ページ上部の解説に依拠している分、胸がいたい。

芸術とは、行間である。

芸術とは、全部を言い尽くさないことである。

そして芸術とは、不完全だからこそ芸術で、赤子のように、その不完全な芸術にしかできない表現を補完してくれる外側の解説を待っている、弱い存在である。 

小説家であり、アクティビストでもある市川沙央

ところで作者は、この知的な仕掛けに酔っているのか?答えは否である。もし作家が酔っていて、これを世紀の表現的な仕掛けであると思っているのならば、神話性をより強調したはず。 

「より」神話然とさせたかったのであれば、物語全体を神様の視点が統治していることが明白になるよう、例えば他の聖書の部分などを冒頭に足せばいい、ただそれだけである。この作家のブラックホールのような知識量を持ってすれば、私の想像が及びもつかないよう言葉を瞬く間に引用できるだろう。

なぜそれをしなかったのか。しないほうがおもろいからでしょ。要は、高尚に見られたいという欲と、世間をガタガタ言わせたい欲で、ガタガタ言わせたいが勝ったという事。(というか、感覚でこれをやってしまっている場合、そんなダサいガードの張り方は思いつきもしなかったかもしれません。

“芸術の本質は、挑発である。それ以外のすべてのものは、装飾である”と言ったのはアイウェイウェイ。

 抽象的で古めかしい神の言葉、聖書で始まったら、今を生きるほとんどの人には、眠いでしょ。さすればネオ・宗教小説としてその名を轟かせたかもしれないが(&アメリカだったらそれがウケたかもしれないが)、日本ではそうはならないと思う。大衆の心に接続するには、神の声や神話性なんかより、ハプバー日記。エッと思いながら、読んじゃう、心理。

そのすべて、確信犯ですね?

芥川賞の受賞スピーチに市川さんの凄みが詰まっていると思う。

“…「ハンチバック」は私が産んだ小説ですが、種付けをした「父」と言える存在が二方います。ひと方は、私の懇願のお手紙をスルーなさった出版界。もうひと方は、私のライトノベルを20年落とし続けたライトノベル業界。この場をお借りして、御礼申し上げたいと思います。その方々がいなければ、私は今、ここにはいません。

怒りだけで書きました。「ハンチバック」で、復讐をするつもりでした”(感動するけどここでは以下略)

文藝春秋

何が凄いか。一つ目は、世の中を煽ったこと。二つ目は、書いた作品に引っ掛けて、孕む、という言葉を使ったこと。つくづく、底の知れない人である。

島田雅彦氏は、芥川賞の講評で、“(作品の)ラストは一人の小説家の誕生をほのめかし、こうなったら、開き直って書いていくしかないという決意の表明と受け止めた”と述べる。でも、書くこと以上に腹をくくらなければできないこと、それはそれを世の中にどう置くかの方だと思う。書くことに全身全霊を注ぎ、でも作品そのものが自己表現だから矢面には立ちたくない。インタビューは受けず黙々と活動し続ける、それだって作家の生き方の一つ。無名の人がそれをやって成立させるのは難しいが、芥川賞を取った作家なら、それを選択する自由くらいあると思いたい。

市川沙央は、産んで満足ではなく、それを最大限に活用して日本社会を変えたいと願っている。

草間彌生は1960年代に、NYでクサマハプニングと呼ばれるムーブメント(裸の男女に水玉をペインティングして公共の場をジャックする)を次々と仕掛け、これが前衛芸術家の生き方だと言ったが、市川沙央がやっていること草間彌生と同じレベルに達していると思う。

だって、中絶することをゴールに妊娠するために金銭でセックスを買う(それも親の遺産で)障害者の物語を書くって、どんな勇気。

「当事者文学と言ってもらって構わない」

多くの作家は、精神的な自由、作品からの距離を確保したくて、「あれは小説ですから」という。でも似たようなところにありそうな言葉「私小説」ではなく、当事者表象・当事者文学というフレーズを選択した彼女はさすがであると同時に、何もかもが確信犯だと思う。

ちなみに草間彌生は当時アメリカの法律を5個くらい常に破っていて、そのために弁護団をずらりとつけて行動していたと自書で語るが、市川沙央は一つの法も犯さず超平和的なプロテストである。

ところで表現者が作品を使ってどんなプロテストをしようと完全な自由である一方で、キャッチーなワードを言われるがままに拾って、当事者文学!当事者文学!!!障害者が障害者を!!!!という側面だけを強調して媒介するのは恥ずかしい(蛇足過ぎて恥ずかしいくらいだが、重度身体障害者である作家が、この作品に描かれていることすべての「当事者」であることは不可能であり、あるレイヤーのものに対して、絶対的に非当事者文学でもあるからだ)。

市川沙央が呈示したものは、当事者性、非当事者性、実体験、知識、想像力、ユーモア、人間の持つ喜怒哀楽のすべてを創造神としてコラージュさせた、創作の究極の可能性。

純文学か?(それは人間とは、に挑戦するか?)エンターテイメントか?(それは面白いのか?)SFか?実録文学か?私小説か?社会評論か?そんなジャンルの垣根をあざ笑うかのように飛翔し、この世の全ての短絡的な言説の完全に上空をラピュタのように漂う。

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