アメリカで出会った ぐるるな仲間たち 第1回
By やよい
いまから30年ほど前、私は夫の留学先だったアメリカの地方都市に暮らし、公立職業訓練校のESLクラスに入学しました。そこで出会ったのはヒスパニック系アメリカ人や世界各国からの移民、難民など、生まれも育ちもまったく違う、それぞれに事情を抱えたクラスメイトたち。それまでは活字や映像の中の出来事でしかなかった「世界」を初めて身近なものとして教えてくれた仲間との思い出を、ここに綴りたいと思います。
初めての日本人として①
広大な大学施設を中心にレンガ造りの学生アパートやそれぞれに趣向を凝らしたかわいい家が建ち並ぶ大学街から北へ車を走らせてダウンタウンのビジネス街を抜け、大きな川沿いのビール工場を横目に見ながらさらに進むと、やがて敷地の周囲を高い金網でぐるりと囲まれたコンクリート造りのビルが見えてきます。それが職業訓練校でした。
学校には飲食店のキッチンやホールでの業務を学ぶコースと看護師やプログラマーを養成するコース、そしてESLクラスがあり、いずれも無料で学ぶことができました。ESLクラスの入学試験は簡単な四則演算が20問ほど並んだ算数の問題とインタビュー。算数は目の前で採点されてもちろん満点。「素晴らしい!」とこちらが恥ずかしくなるほど褒めてもらい、アメリカに来た理由やこれまでの学習歴などいくつか質問に答えると、「では、来週月曜から始めましょう」と入学決定。湾岸戦争が起こり、ソビエト連邦がロシア共和国になって少したったころのことで、アメリカはまだ外国人に寛容でした。
町には日本人駐在員の家族も住んでいましたが個人やグループレッスンで英語を学ぶ人がほとんどで、手入れの行き届かない家も多い地区に建つその学校に通う日本人は私ひとり。「どんな出会いが待っているのだろう」と、どきどきしながら初日を迎え、案内された教室に入ると15名ほどの視線が一斉にこちらに向けられ歓声があがりました。新入生が来ることは伝えられていたようで、担任のジョージとクラスメイトから受けた温かい歓迎で一気に緊張がほぐれました。
その日も、そしてそれからも学校では日本人ということでいやな思いをしたことはなく、むしろほとんどの人から好意的に受け入れられました。当時「日本といえば」で出てくるのはToyotaやSonyで、made in Japanの評価が上がっていたのも好印象の一因だったかもしれません。でも、それだけでなく「日本人は差別しない」「親切にしてもらった」などと言われることがあり、過去に彼らが出会った日本人の言動も大きな要因となっていたと思います。
バングラデシュ人のイーサンは母国で日本人といっしょに働いた経験がありました。ODAか何かの治水事業で土木工事に携わっていた日本人が、過酷な環境の中で朝から晩まで現地の人にまじって同じ作業をし、現地の人以上に勤勉に働く姿に驚いたそうです。「日本人は指示を出すだけでなくいっしょに働いてくれた。私たちはすぐに疲れて休もうとするけど、日本人はサボらない。なぜあんなに一生懸命働けるのだ。とても真似できない。尊敬する」と話してくれました。
ラオスから来たニッキーもそうでした。
(第2回につづく)
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