見出し画像

南田登喜子:「もんてびでお丸」ルソン島沖でついに発見 何年経っても捜すことをやめない人々


何年経っても捜すことをやめない人々

連合軍捕虜や民間人を輸送し敵国では「ヘルシップ」と呼ばれていた

 約81年前の1942年 7 月 1 日に、米軍の潜水 艦「スタージョン」の魚雷攻撃を受けて沈没した日本の「もんてびでお丸」が、フィリピ ンのルソン島北西沖の水深4000m余りの海底で発見された。 4 月22日付の国内外向けの プレスリリースを読んだ時に、真っ先に「どのくらいの日本人がこのことを知るのだろう か?」と、浮かんだ。

 1926年竣工のもんてびでお丸は、国産の 舶用ディーゼル第 1 号機を搭載し、移民船と して、南米航路で活躍した大阪商船(現・商 船三井)の船。41年に一般徴傭船として徴傭 され、後に特設運送船に編入された。

 連合軍捕虜や民間人を輸送した日本の船は、 敵国では「ヘルシップ」(地獄船)と呼ばれ ていた。扱いがひどいだけでなく、航海中に味方から攻撃される可能性があったからだ。 オーストラリア戦争記念館の調査によると、 ヘルシップ乗船中の連合軍捕虜死者数は 2 万 2000人以上。うち 1 万9000人は、「フレンドリーファイア」、つまり同盟国からの攻撃で命を落とした。その数は、泰緬鉄道建設時の 連合軍捕虜犠牲者を上回る。  

 旧日本軍は、真珠湾攻撃からわずか 1 カ月半後の42年 1 月23日、当時オーストラリアの 委任統治領だったニューギニア(現パプアニューギニア)のラバウルを占領した。戦略的に重要な港湾を守るために配備されたオーストラリアのラバウル守備隊「ラークフォース」(雲雀部隊)は約1400名で、遥かに数で 上回る旧日本軍の侵攻に立ち向かえる術はな かった。退却にあたって指揮官が最後に下し た命令は、「自分の身は自分で守れ」(Every man for himself.)。もんてびでお丸は、その後の掃討作戦で捕らわれたり降伏したりしたオーストラリア軍捕虜と民間人被抑留者約 1060人を日本占領下の中国・海南島へ移送するための航海中に攻撃を受けた。船は11 分で沈み、捕虜は全員死亡した、とされている。14カ国の15歳から60代までの犠牲者のうち、約980人がオーストラリア人だ。

 国際赤十字等からの再三の情報開示要求に、 日本は応じず、もんてびでお丸の沈没や乗船者に関する詳しい情報がオーストラリア社会や遺族に伝わったのは、 3 年以上も後のことだ。終戦後の45年 9 月、在日歴のあるハロル ド・ウィリアムズ少佐が、捕虜関連の調査を行うために日本へ送られた。

 その報告書によると、俘虜情報局は同船の情報はないとしたが、日本海軍が沈没を報告した43年 1 月 6 日付の書簡を発見。848人の捕虜と208人の民間人の氏名を片仮名で記載した名簿が添付されて いた。

リサーチに費やされた時間は20年 愛する人の永眠場所を知らせること

 ウィリアムズ少佐は、ラバウルの行方不明者リストと照合して英語版名簿を作成し、そ れを元に遺族へ戦死通知が送られた。遺族の中には、家族がもんてびでお丸に乗ったことや、船の沈没、あるいは存在自体を否定する人も少なくなかった。虐殺を隠蔽する嘘だと主張する人もいた。同少佐は翌10月に、「乗組員17人生還」と記載のある報告書を大阪商船から受け取っていたが、その際に事情聴取していれば、と思わずにはいられない。 生還した元船員の声が出たのは、61年後。 公共放送ABCが、2003年10月にヤマジヨシ アキさん(当時81歳)のインタビューを「The 7.30 Report」で放映した。ヤマジさんは、「20~30人、もしかしたら100人の捕虜が木片につかまったり、大きな木片を筏の代わりにしているのを見た」と証言し、「オールド・ ラング・サイン」(「蛍の光」の原曲)を歌い始めたことに胸を打たれたと語った。帰国後、「捕虜は駆逐艦に救助され、神戸に連れてこられた」と会社の関係者から聞いたとし、「全員亡くなったとは思わない」と述べた。 もんてびでお丸の沈没は、オーストラリア 史上最悪の海難事故。だが、以前はそれほど広く知られてはいなかった。サンダカン死の行進、泰緬鉄道建設、チャンギ捕虜収容所... ...そういった凄惨な場所からオーストラリア に帰還した元捕虜のストーリーが、強烈すぎたせいかもしれない。

 今回の捜索は、海洋考古学と歴史を専門とするシドニーのサイレントワールド財団とオ ランダの深海調査会社フグロが、オーストラ リア国防省の支援を得て行ったもの。ソナー 内蔵の自律型無人探査機(AUV)等の最新技 術を駆使して、捜索開始から12日目に有望 な観測情報が記録され、その後何日もかけて、海洋考古学者、保存修復管理者、運用・調査 専門家、元海軍将校らが専門的に分析し、検 証を行ったそう。 5 年がかりのプロジェクト を率いたサイレントワールド財団ディレクタ ーのジョン・マレンさんは、「何年経っても、 職務遂行中に命を落とした人々を忘れること なく、捜すことをやめない国の国民であるこ とを誇りに思う」と述べている。リサーチに 費やされた時間は、20年に及ぶ。

 プロジェクトには、日本人が 2 人参加している。運営担当のシドニー在住の大谷奈美さんは、「永住先のオーストラリアの歴史に残る惨事にまつわる日本の船を見つけるプロジェクトに関わる事は、使命のように感じた」 と言う。マレンさんは、匿名を希望するもう 一人の日本在住の歴史家・リサーチャーにつ いて、「何年にも渡る彼の貢献がなければ、 船は見つからなかった」と謝意を表した。

 60周年式典の際、オーストラリア戦争記念館所属の歴史家イアン・ホッジ氏は、日本 人犠牲者数に関して、少なくとも71人と言及していた。大谷さんにそのことを聞いたと ころ、大阪商船の報告書には、日本人船員・ 警備員の数は計122人で、うち20人が船と共 に亡くなり、102人がライフボートで陸に着いたものの、ゲリラの襲撃等により、さらに約80名がマニラ到着前に命を落とした、と 記録されていたらしい。

 発見後に船上で行われた追悼式では、花輪と共に、奈美さん作の50羽の折り鶴をマレ ンさんが海に投げ入れて、故人を追悼し、敬 意を表したという。マレンさんは、捜索の目的を「すべての国の遺族に終結をもたらし、 彼らの愛する人の永眠場所を知らせること」 とし、日本人犠牲者に関しても、「東京でイ ベントを開催し、亡くなった人々を追悼する とともに、沈没船の詳細と場所を日本の当局 に伝え、永遠に保護することを望んでいる」 と今後の計画を教えてくださった。

「もんてびでお丸」ルソン島沖でついに発見


ニューリーダー 2023年6月号掲載

<世界総覧>~世界はどう動いているのか~
「オーストラリアが教えてくれること」)
(リンク先 http://www.newleader-magazine.com/back_number/?id=1684805346-668886

「もんてびでお丸」ルソン島沖でついに発見
何年経っても捜すことをやめない人々
(オーストラリア在住ジャーナリスト 南田登喜子)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?