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”ボディシェイミング”って知ってる?

ボディシェイミングという言葉を聞いたことがあるだろうか?
NYの友人でジャーナリストの シェリー めぐみさんがこのことをtweetしていて、常々思っていたことがふつふつと湧き上がった為、備忘録として書き留めておこうと思う。

まず、ボディシェイミングの意味はめぐみさんのtweetをご覧頂きたい。

これ、日常的にやってしまっているであろうということ、どれくらいの人が気づいているだろうか?

筆者がアンバサダーをしている日経クロスウーマンでも力を入れて取り上げられていた、日経BPから出版された『駄言辞典』という本がある。この「ボディシェイミング」とそれに該当する言葉は、括りとしたらこの駄言に入るのだろう。しかし、正直なところ、「駄言」という、どちらかというと四角い感じの枠には収まりきらない、もっと様々な種類の人間がいるように、一定の形に定まらない生身の動物のような感じ、それがボディシェイミングの根底にあると思う。

このボディシェイミングな言葉、気軽な挨拶の気持ちで言ってるケース、そして言ってはいけないことに気づかずに表現として使うケースは、想像を大きく飛び越えるほど多い。また、このことを問題として受け止める時、性別軸で「女性が異性から言われて、それが変だと訴えている」と思われがちだが、それは大間違い、女性も男性に対して言ってるし、人種という面で見れば、それは一方通行のことではなく、双方向。また、それは性別・人種の軸とは別に、個人的に嫌だと思う基準もあったりするのだ。

からかいや批判の意味ではなかったとしても、結果的に相手に屈辱を感じさせたらそれは「ボディシェイミング」となる。

日常生活や通常の社会生活においても勿論だが、このことは筆者が自分の専門分野を持って人に接する際、20代から最も神経を使って来たことだったと告白しよう。そして、同業の育成をする際には技術以上に厳しく口すっぱく言って来たことでもある。しかし、なかなかその意味を理解する人がいなかったことも非常に残念だけど紛れもない事実であることも伝えよう。

しかし、世界はこの2年で大きく変わった。様々な問題が浮き彫りにされ、その一つが『駄言辞典』という本の登場だったのだと思っている。このような事柄を意識し自分で心がける、自分がやられていることに気づくことも大事だが、それ以上に、自分が人にやっていないか?と振り返ってみることの方が先決なのだ。

中でも、人のアピアランスやプレゼンスにコメントする必要のある職業に就いてついている人は、「知らなかった」では済まされない。筆者の仕事の中心にある国際イメージコンサルタントを始め、スタイリスト、メイクアップアーティスト、ヘアスタイリスト、ボディトレーナー、その他服飾・美容・健康関連の職業の方々がそれに該当する。

この意識を当たり前に持てることは、技術的能力やセンスよりも実は大事。なぜなら常に仕事の対象は人間だから。例え同じ人種同士であっても、それぞれ違って当たり前が大前提だからだ。同じことを言うにも、言葉の選び方や言い方、裏に含まれるニュアンスによって、相手に受け取ってもらいやすくなったり、貶めているようになったりもする。誰がその言葉を言うか、それも重要で、それはその人はコンテクストの中でどのようにその言葉を使うかにより、相手に響いたり、相手を切りつけたりするからなのだ。

自分ごとだが、筆者は様々な種類の人々が生きるこのNYで現在の職業につくトレーニングを受けた。それにより、日本にだけ居たら知ることもなかったし、誰も教えてくれなかったであろう、人の容姿を言い表す際のデリケートさを叩き込んでもらえたのだ。日本人や日本語表現は繊細で、気を遣い、おもてなしをするというけれど、筆者の周りにはそれと比べものにならない程に人を対象にする際の神経の細やかさを見せる非日本人達が多くいるからだ。

筆者が25年以上前のトレーニングを振り返った時、あれはボディシェイミングをしないように教えられていたのだなと明確な言葉で理解したのは結構最近のことなのだけど。ボディシェイミングを回避すると言うことのわかりやすい例として、肌の色の表現。「肌の色が白い・黒い」ではなく、「肌の色が明るい(ライト)、深い(ディープ/ダーク)」。また髪の質を言い表すにも「髪が縮れている」などという表現は絶対に使ってはならない「細かなカール」などなど他に言い方はいくらでもある。

また、絶対にやってはならないと教えられていたのは、対象者の縦のサイズは表現しても良いが、横のサイズを表現したり、ましてや数値的に計測すること。服を作るなどの実寸を知る必要のある確実な理由があり、それがないとクライアントの本来の目的を果たせない場合はきちんと説明をして同意を得てから行うこと。これを教えられたあの日、開いていたテキストのページとその時の感じを記憶している。恩師も様々な生徒がいる中で、言葉を選びながら、真剣に伝えてくれていたのだろう。20代の筆者にどれだけ深く染みたかを再認識している。

そのような経緯があり、筆者は自分と同じような肩書を持っている人の言動や言葉の選び方を聞くたび、知らないが故に、無邪気にナイフを振り下ろす残酷さを見ることがとても多いのだ。自分はグローバル感覚があると自称している人でも残念ながら少なくない。

まずは上記にあげた何らか人の見え方に関わる仕事の人は勿論、全ての人においてお願いしたい。グローバル云々はどうでもよい、また日本語以外の言語を喋る必要もない。まずは母国語である日本語で、自分が選び使っている、特に人の外見を形容する言葉にどういう意味が含まれているか考えることを。その機会が今なのだ。自分では慣れすぎて、無意識に使っている言葉が、人を辱めてることある恐れがあるのだから。

そして「褒めたつもり」でも、受け取った側が侮辱だと思ったら、それは侮辱なのだ。そして、「闇雲で具体性もない褒め方も時に侮辱になることがある」と思いついてしまったので、次(何かの機会)へのトピックとして、締めの言葉とメモとしておいておこうと思う。

言葉は生き物、時代とともに変わり、長きにわたる解決されない問題が伴う場合、存在する意味が濃くなっていくものなのだ。

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