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【エッセイ】ただ幸せになりたかっただけ

JR千葉駅から徒歩五分のカフェは昔ながらといった様子の喫茶店だ。歓楽街の入り口、鄙びたビルの一階にあって、レトロなインテリアは煙草の煙で燻されて黄ばんでいる。コーヒーは美味しく、ケーキも食べられる。いつも静かで並ばないが、立地の関係上、たまに治安の悪い人間が世紀末のお行儀で居たりする。私の好きな店のひとつだ。

二〇二二年十一月四日、私とナナセさんが通されたのは入口の真横で、籐の衝立に隠された半個室みたいな空間だった。その閉鎖的な環境は都合が良かった。

ナナセさんは背が高く、筋肉質で、マスクを取れば爽やかで整頓された顔をした男性だった。同い年で、バーを経営していて──レンタル彼氏をしていた。

「メールでもお伝えしましたが、今日は私の懺悔を聞いてほしくて」

私は意図的に落ち着いたトーンの声で話しながら、カフェのメニューをナナセさんに向けてピラッと見せる。ナナセさんは私をチラッと窺ってから、「めぐるさんは何にしますか」と穏やかな声を出した。その姿は、不躾な話、大きくて優しい犬を思わせた。

「私はアメリカン」
「じゃあ僕もそれで」
「頼みたくなったら何頼んでくださっても構いませんよ。お好きなだけどうぞ」

私は事前に決めていたことを言う。きっとストレスを掛けてしまうし、でもなるべくストレスを掛けたくなかった。

「私は今日、別れた夫の話をしたくてナナセさんに依頼しました」
「仰ってましたね」
「私、男性、特に歳の近い男性を軽蔑してしまっていて。離婚以来」
「そうは見えませんけどね。こうやってちゃんとお話してくれますし」
「そりゃあ……大人ですから」

私が笑えばナナセさんも「そっか」と笑う。私がポーチから煙草を出せばナナセさんがガラスの灰皿を押してくれた。

「歳の近い男性が苦手なので同い年のナナセさんを呼びました。前の夫も同い年でしたし」
「…………」
「和解したくて。男性とも、私自身とも、私の中の前の夫とも」
「…………」
「私、よく知らないひとに無駄に共感されたり背中を摩られたりするのが苦手なので、それはやめてほしいです。無理に相槌は打たなくて結構です、『はい』で固定しちゃって、全然」
「わかりました」
「ご面倒をお掛けします」

私は煙草に火を点けて、手持無沙汰にお気に入りのガスライターをナナセさんに「可愛いでしょ。サロメ二世って名前です」と見せびらかした。一世の方は直前に友達におさがりプレゼントしたばかりだったから、二世だけが手元にある状態。
ナナセさんは「良いですね。僕の父がセブンスター吸ってたんですよ」と無邪気な声を出す。彼はさすが、ひとの心をほぐすのが上手い。

無言のまま、煙草を二本吸った。キャップを被った店員の男性が注文を聞きに来て、帰り、コーヒーを持って来てもまだ吸っていた。

何から話せば良いのか、全部考えて来たのに、周到に練って来たのに、すべてぐちゃぐちゃになってしまっていた。望んで用意した機会なのに、理屈の無い緊張に襲われて、それは私の身体を僅かに強張らせた。

「…………、彼と知り合ったのは、私が大学生の時でした」

両親と私と妹、家族四人で住んでいた家から母と妹と三人で出たのは、私が高校を卒業して本当にすぐだった。大学の入学式の前に、突然家を飛び出したのだ。世間でよくある、両親の離婚前の別居だ。
母は私が十歳になる前に鬱病で寝たきりになり、そこから一念発起しての自立。

私も母に引きずられるように十四で精神面を持ち崩し、そこからずっと軽い精神安定剤を飲んでいた。病名は『適応障害』。
父はきちんとお金を送ってくれていたが、生活とはよくわからないぐらいお金がかかる。病院にも行くお金があったり無かったり。

生活に困窮した末、私達三人は同年のクリスマス前に、格安の県営住宅に引っ越した。
県営住宅に引っ越したことで何が良かったか。アルバイト先に困らない立地になったことだ。というのも、大きな、そして閑散とした商業施設の目の前の立地だったのだ。

私と彼は、その商業施設の中のスーパーマーケットでそれぞれ働いていた。
私はレジ係のアルバイト、彼は鮮魚コーナーの正社員。

初めて会ったのは、アルバイト帰りにアルバイトのメンバー皆で駐輪場に屯していた時だった。先輩の男の子と仲の良い、気さくで楽しい年上の男性、というのが第一印象。実は同い年だったんだけど。とにかく挨拶の気持ちいいひとだった。

「めぐるさん、ダイエット頑張ってんの。邪魔しちゃお」

当時私はキリキリダイエットに励んでいて、彼はその私をよく揶揄った。私が休憩時間に食べているサラダの真横に、チョコレートをふたつ置く。

「ダイエット中だから邪魔しないで」
「ご飯食べてないんだからお菓子食べても大丈夫だよ」
「それはそうかも」

私は真剣な顔をしてチョコレートをモリモリ食べ始めて、彼はそれを見て「妨害成功~」と笑う。そのまま「シフト中に舐めな」と飴玉もふたつくれた。

「皆に上げるためにお菓子持ち歩いてんの」

彼はいつだかの休憩中、得意げに胸を反らした。

「だからめぐるさんともこうやって仲良くなれたでしょ」

私は『こいつ本当にタラシだなぁ』と可笑しさ半分、呆れ半分で「そうだねぇ」と返した。

私は当時、好きな男の子がいた。同じ大学・同じサークルの男の子で、彼は中国語を勉強していた。音楽をやる子で、ボカロP。

「なにめぐるさん。良いことあったの。ミクシィ見たよ」

あるバイト上がり、彼は声を掛けて来た。

「そうなの。一緒に花火大会デート行くことになって」

私はピースサインをしてニコニコ笑う。彼はちょっと上を向いて考えた後、「何処の?」と頓狂な声を出した。花火大会シーズンも終盤、もう地元の花火大会はやりつくした後だったからだ。

「松戸の方。あの子がそっちの方の子でね、そこなら行かれるって言うから」
「えーっ。男に来させなよ。甲斐性ねぇな」
「いいの! 私はしてあげる方が好きだし」
「女の子はしてもらいなーっ」

彼は渋い声を上げてから「俺もしてあげる方が好き。お揃いだね」と丸い声を出した。

「お菓子持ち歩いてるの見りゃそんなことわかるよ」

今度は私が渋い声を出せば彼は「今日のチョコちゃん。」と言いながらまた私にチョコレートを餌付けた。

彼は良い友達だった。距離感の取り方も不快にならない程度の近さで、いつも楽しそうにしており、楽しいことを運んできてくれる。私が話したことが無いタイプの男の子だった。

好きな子と花火大会に行く前、七月。
彼と私は夜の海までドライブに行ったことがあった。

彼は暇になると私にメールを送ってよこした。次のお菓子のリクエストを聞いてくれたり、逆に私がお返しをすると言えばチョコレートをリクエストしてきたり。
その日も夕方メールが来て、ドライブに誘われたのだ。

男の子とドライブなんてしたことが無い。私が乗ったことがあるのは父の運転する車のみだった。

私はワクワクと、ほんの少しのドキドキを携えて、県営住宅の下まで迎えに来てくれた彼の水色の軽自動車に乗った。

「めぐるさん、好きな子とどう」

彼はよく喋った。私は神経質な父に『パパが運転中は絶対に声を出してはいけない』と躾けられていたので、窓にビッタリ張り付いて高速道路と夜空を眺めてた。

「わかんない。私、男の子と付き合ったこと無いから、『この仕草はOKのサイン』みたいなのが本当にわからないんだよね」
「意外」
「学生時代はもっと地味だったから。太ってたし、学校にお化粧してってなかったし」
「真面目だったんだね」
「ううん。学校行かなかったりもしたよ」
「俺も。学校行かないでずっとバイトしてた」
「あはは、それではないかな」

沈黙。私にとってその沈黙は意味のあるものではなかったが、彼は私が黙る度によく喋った。

蓮沼の海岸に着いたのは確か夜八時頃で、空は曇っていた。ドーン、ドーンと黒い海が鳴っていて、「ゴジラとか出そうだね」と私は怖がって彼の真横に陣取った。

「めぐるさんさ、好きな子が彼氏になったら一緒にお祝いのご飯行こう」

一緒に海岸を歩きながら彼は言った。私は一瞬考えて、「行かない」と言う。

「何で」
「私が相手の男の子に、私以外の女の子と食事に行かれたら嫌だから」
「真面目だねぇ」

彼は気を悪くしたふうもなく笑って、「じゃあ」とめげずに声を上げる。

「じゃあ、もし振られたら失恋記念食事会やろ。ハンバーグ奢ってあげる」
「うるさい」
「俺はどっちでも良いよ。付き合えると良いね」

風は強く、湿っている、ふたりしていつの間にか立ち止まって海を見ていたが、やがて「帰ろっか」と言ってふたりで帰路に着いた。

何と失恋記念食事会は開催された。
振られたからではなく、振ったからだが。

私はあの後花火大会に好きな子と行き、告白し、めでたくお付き合いと相成って──放置され続けてキレて、「生産性が無いから別れよう」と振ったのだ。

「ハンバーグを食わせろ。」

私は、その時すでに転職して違う職場に行ってしまった彼に自分からメールした。

「何? 別れたの?」
「振っちゃった」
「自分から振ったんじゃん」
「あんまりにも寂しかったから意味無いなって」
「今夜七時に店の前ね。不二家の前。手ぶらでおいで」

彼はそう切り上げて、仕事に戻ったのだろう、私も大学で授業を受けた。

さて、アンザイさんの話をしよう。

アンザイさんは彼の中学の時の同級生で、私達と同年齢の、おさげの女の子だった。レジ係の先輩で、面倒見がいい。私はレジ係の中でいちばんアンザイさんを当てにしていた。

約束の日、不二家の前で待っていた私はたまたまアンザイさんと出くわした。

「祭さん! どうしたの?」
「こんばんは。待ち合わせで」
「友達?」

アンザイさんに彼の名前を言えばアンザイさんは渋い顔をして、私の隣に立って何やら言葉を選んだ。

「……デート?」
「そういうわけでは」

私が事の顛末を話せば、アンザイさんは眉間の縦皺を深くする。

「めちゃくちゃロックオンされてんじゃん」
「そういう訳でもないと思いますよ」
「気を付けな」
「……?、」
「彼、嘘つきだよ」

ザア、冷たくなり始めた風が吹き抜けた。

待ち合わせ場所の向かいにある高校の校庭に植わった樹がザワザワと揺れた。彼、嘘つきだって。本当? さあ、知らない。噂しているみたいだった。

「中学の頃から有名だよ」
「…………、」
「同じ中学でね。カオリちゃんと彼が別れたのもそれが原因」

カオリちゃん、というのはアンザイさんや私が働くレジ部門でやはり一緒に働いていた女の子で、やっぱりみんなと同い年だった。
彼とカオリさんが昔付き合っていたことは彼から聞いていて、寄りを戻したいと言っているのも聞いていた。その度私はその愚痴とも惚気ともつかない嘆息の相手をしてやっていた。

「気を付けなね。見かけ通りのひとじゃないよ」
「…………」

私は黙り込んでしまった。彼女の言った言葉の意味を計りかねていた。アンザイさんは誤魔化すように「嫌な話しちゃったね」と笑った。

「楽しんでね、いっぱい奢らせな」

そう言って彼女は立ち去った。

私は彼が来るまでその言葉の意味を考えていて、──彼が来て間もなく、その言葉を忘れた。
この言葉を私が次に思い出すのは、私がナナセさんに話すために、傷だらけになりながら過去の記憶を引っ張り出しては吟味している時になる。

「愉快なひとでしたよ」

淡々と語る私の言葉を、ナナセさんはやっぱり行儀の良い犬の顔をして聞いている。セラピードッグ、という存在を思い出した。

「初めてちゃんとしたデートに行ったのはディズニーシーでした。忘れないです、十月二十八日。学校をサボって行きました。朝、私の大学の近くの駅で待ち合わせて、最初に行ったのが葛西臨海水族園で、その後あの辺りの公園を散歩してから入園しました。財布持ってこなくて良いよって言うけど申し訳なくて、友達に相談して飲み物を一杯ご馳走してあげました。他は全部彼持ちで、そんなデートしたことなかったから浮かれちゃって」

私は馬鹿みたいに煙草を吸いながら思い出していた。花火を見ながら撫でられた頭の感触とか、繋いだ手の温かさとか。

「贔屓目なしに、ただお付き合いするだけなら楽しいひとだったんじゃないかな。サービス精神旺盛だし。『やってあげる俺』が好きなひとって、上手く付き合えば何処までも献身的じゃないですか。下手を打つと全部逆襲されるんですけど」

フーーッ、と煙を吐いて、思い出してる途中に痛くなってきた頭を堪えて目を瞑る。程なくして頭痛薬を飲んだ。

何を間違えて彼と別れ、今こうしてナナセさんに懺悔をしているのか分からなかった。

或いは、最初から間違えていた。そういう関係に持ち込んでしまったことこそが私の失敗なような気もした。

だけど私は幸せだったのだ。

あの日々、確かに私は幸せだった。

彼はまめな男だった。仕事中もよく、自分の仕事ぶりを写真付きのメールで報告してきた。朝から晩まで私たちは絶えず連絡を取っていて、私は彼にベタ惚れだった。

彼は私の友達から『しろくまさん』と呼ばれていた。熊みたいな男で、しかし気前よく優しい。私の友達にも愛想よくしてくれるし、彼の友達も私をチヤホヤ可愛がってくれた。

「俺デブス専て言われてて、でもめぐると付き合い始めてから汚名返上」

彼は垢抜けない私をよく褒めてくれた。

「歴代でいちばん可愛いって評判だよ、お前」
「逆に今までの女性遍歴大丈夫?」

とにかく自分に自信が無かった私は心配になって聞き返す。

「私でいちばんって、相当だよアンタ」

一度、私が父と喧嘩をした際、彼がそのまま私を連れ出してくれたことがあった。

その喧嘩の原因は思い出せないけど、彼が田舎の山間まで車を出してくれながら冗談めかして言った言葉は今でも覚えている。

「連れて逃げてやろうか」

彼は助手席でいつまでも泣いている私を片手で撫でまわしながら言った。

「遠くまで行く? 俺お前のためだったら親父さんにごめんなさいできるよ」
「何処にだって逃げられないよ。だって私あの人の子供だもん。学費だって生活費だってあの人に出して貰ってる」

彼は青い水田を眺める日陰に車を停めて、私を抱き寄せた。私が「もうやめて」と笑いだすまでキスをしてくれた。

彼が私の逃げ道だった。すべてが私を見放しているような状況で、彼だけが私の味方でいれくれた。
当時私は、折り合いが悪く逃げ出した母の家を出て父の家へ帰ったばかりで、しかし父とも上手くやれずにいた。三十歳の私は家を飛び出せばいい。一通りを経験している私はもう何も怖がらずに一人になれば良いが、二十歳の私は怖いものだらけで、いつも背中を丸めて泣いていた。それを擽って笑わせてくれるのはいつも彼だった。私には彼しかいなかった。

私は男の子と碌に付き合ったことも無い中、彼と迎える初めての夏、彼に誘われてプールに行った。蓮沼のウォーターガーデンは、県内でいちばん大きなプールだった。

「行ってくれるの!?」
「行くよ、そりゃ」
「嫌がられると思った。人前で水着になりたくないかと思った」
「何で私が人前で肌を晒すことを厭わなきゃいけないの?」
「お前そういうところあるよな」

彼は私の頭をコチョコチョ撫でて、「水着楽しみにしてるね」と柔い声を出した。

私は水着なんて持っていない。さあ大変、と水着のセールに、中学の同級生にして未だにつるむ私の〝外付けの脳〟である友人のチカちゃんと一緒に行った。

「いやね、結局それが一番祭さんらしい」

彼女は今と少しも変わらない調子で私が試着した水着を褒めちぎった。

茶色い刺繍の入ったクリーム色の水着に、他所から引っ張って来た茶色と白のチェックのショートパンツ。必死に身体を絞って、綺麗に髪を結い上げてウォータープルーフのメイクをしていき、

「ガボボボボボボ」
「あはははははは」

彼にちゃんと〝可愛がられた〟。頭からプールに沈められて、犬神家みたいに足首を逆さに持たれて揺すられた。

私の口から出る泡が途切れた辺りで彼は私を解放し、私を水からザブンと上げて、ビショビショの頭を掻き撫でて、メイクの落ちた頬を挟んで私のおでこにグリグリおでこを押し付ける。

「な”ん”でぞう”い”う”ごどずる”の”」
「ははは。可愛くて」

彼はこういうところがあった。

他の年、一緒に海に入った時も、私を海に投げたり、乱暴に、男の子のきょうだいにするように遊んでくれた。

いじめられた私が鼻をグスグス言わせながら彼にもう一度くっつくと、「またやってほしいの?」と甘い声を出して私の鼻を摘まんで揺すり、何度だって私をかまってくれた。私は確かに彼にいじめられたくて彼にくっついていたから。

彼はとにかく私の扱いが上手かった。
飴と鞭の使い方というか、私の擽り方というか。
難点を上げるとするなら、彼は私とのデートによく遅刻してきたけれど、数年後に話を聞けばそれは前日も私とのデートで遅くまで外に出ており、コンビニの駐車場に車を停めてから眠って帰っていたとのことだった。
デートの度にお金を出してくれたし、車で何処でも連れて行ってくれた。
私は彼無しでは何処にも行かれないんだろうなぁと思い、それを言えば「何処にでも連れてくよ」と笑ってくれた。

それは間違いなく私の救いだった。

私はきっと、彼に助けてもらえるのだと思った。彼がこの現実から私を連れ出してくれるのだろうと、この窮屈で息苦しい世界から助け出してくれるのだろうと、そう思ってしまったのだ。

「犬神家」
「そう、犬神家」

ナナセさんは私の言葉をリピートしてからややあって「そういう遊び方が上手いひと、いますよね」と穏やかに笑った。

「男三人兄弟の長男でしたからね」
「成程ね」

ナナセさんは納得したように頷いて、店員のお兄さんを呼んで灰皿を変えてくれる。私はすみませんと軽く頭を下げて、灰の散らかったテーブルを拭いて掃除する。私はいつもすぐにテーブルを灰だらけにする悪癖がある。

「幸せだったんです」

私はテーブルを拭く手を停めて舌の上で言葉を転がした。終わった幸福は甘味とも苦味ともつかない味がする。

「いろんなことがありましたけど、私は彼と居られることが幸せでした。私は人生やり直すとしても、もう一度同じ苦しみを味わうとしても、それでもまたきっと彼と居ることを選びます」

ナナセさんは優しい顔をしていた。相槌を打たずに、「そっかぁ」という顔で私を見ていた。

私の手首は十四の頃からズタズタだった。
家庭環境からしてグチャグチャで、私はそれに引っ張られてグチャグチャになっていた。

母の手首もズタズタだったので、リストカットという行為に何の抵抗も無かった。母がやって良くて私がやってはいけない理由も見つからなかったし、幾ら怒られても、殴られたって切りたくなったら躊躇なく切った。

高校三年生になってからは少し落ち着いて、母と暮らす頃には母と喧嘩をして衝動的に刺すくらいのものになった。

彼と付き合って最初に切ったのは、大学の同級生からいじめを受けて、被害者の分際で偉そうにその首謀者を呼び出して話してからだ。頭の悪い、言語化能力の低い同級生にイライラしてトイレで切った。

切ってすぐに私は「まずいぞ」と急に冷静になって、彼に何とその傷を言い訳しようか悩んだ。

自分で言うが、私はこういう時の小知恵の回り方が尋常じゃなかった。賢しい小娘だったのだ。

「話があって」

家に帰り私が電話をすれば彼は自宅におり、「なに? 浮気でもしたーっ?」と頓狂な声を出した。

「いや。そうじゃないけど、真面目な話」
「なに。なに、怖」

彼は茶化して言うも、私の温度の落ちた声に背筋を伸ばした気配がする。

「私の手首に傷が多いのは気付いてるでしょ?」
「え、ああ。うん、まあ」
「話をしてなかったよね。この話をすることできみが私を嫌いになろうと自由だから、好きにしてほしい」

捨てられたくない、とは思っていなかった。きっと彼は私を捨てられない。だから私はこの言葉を選んだ。捨てられたとして、そうしたら被害者面をすれば良いと思っていた。賢しい上に不誠実な小娘だ。

「私は適応障害って言われているの。鬱病みたいなもんだと思って」
「…………」
「鬱病はイメージつく?」
「つく」
「じゃあ説明は省くね。で、今日傷が増えた。特に死ぬような傷ではないけど、見てもびっくりしたり大きい声を出したりしてほしくなくて事前申告しに電話した」

私の語り口は思い出すだに淡々としたものだった。私は十歳になる前から母の鬱病と接しているので、そんな消費されつくした悲劇には食傷気味だったのだ。自分が病気で可哀想という意識も無かったし、病気は大したダメージを私に与えないと知っていたのだ。私の魂までもを消費出来はしないと、ありていに言えば高を括っていた。

彼は暫く黙った。動揺がありありと窺えた。彼は、接していてわかる、そういう人生の汚れを経験していないひとだろうから、可哀想なことを言ってしまったかなとも思った。

「泣いてるの?」

彼は静かに言った。

「……泣いてないよ」

私はごく冷静に返す。泣くような事態はまだ起きていなかったし、泣く必要も感じられなかった。泣きたくもないし、泣く意味も無い。だから泣いていなかった。

「俺以外のところで泣かないでよ。ひとりで泣かないで」

彼はひどく傷付いた声を出して──ああ、このひとは私に泣いていてほしいのか、と私は理解したのだった。私は案外こう見えて呑み込みが早いし、存外『提供』出来るタイプでもある。彼の理想の、か弱い女の子になるのがその場の最適解だと一瞬で掴んだ。

「泣いてないってば」

私は声に涙を含ませながら言った。頭は信じられないくらい冷えていた。この時はまだ、生まれてこの方誰にも『助けてもらう』という経験をしてこなかった私だったが、この可愛い男が私を助けたがっているのは理解できたので、助けさせておくかという判断。或いはこいつなら私のことを本当に助けられるのかなぁとも、淡い期待を抱いてしまった。ひとにひとは救えないのに。

「明日会おう。ラーメン食べよう。きっと良いことあるから、もうそういうことはやめて」

彼は電話越しに泣いていた。私は泣いていないのに、彼は声を震わせて泣いていた。

「賢しさオリンピック十年連続金メダルって感じでしょう」

私は渋い顔で煙草を吸うペースを上げながらナナセさんに言った。

「めぐるさんは物書きさんなだけあって使う言葉が面白いですね」
「私よりもこの先の展開の方がおもろいですよ」
「この話面白くなるんですか?」
「私は徹頭徹尾笑うしかない話をしますよ。笑い話に昇華しないと死ぬしかない類の話」

プカプカ白い煙を吐きながら私は天井を眺めた。

私は幸せだった。

「精神疾患持ちの、うっかりすぐ手首切る女に、あいつ、自殺教唆したんですよ。何度も。これ以降、私の自傷は殆ど彼の自殺教唆のタイミングです」
「…………」
「あのひと、いつから私のこと要らなかったんだろ」

ナナセさんは答えなかった。答えを期待しても居なかったけれど。

私は幸せだった。身を削るように、彼と逢瀬を重ねた日々も、同棲してからも、結婚してからも、ほとんどの時間を心の底から彼を求め愛した。きっと私を救ってくれると、不出来な私を愛してくれる慈悲の男と共に生きる時間を幸福に思っていた。

それこそ削れて無くなってしまったって本望だった。

私の命を価値のある男のために使えるならそれで良かった。


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