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三十過ぎて、勉強をして

私が最初に父の経営する税理士事務所に事務員として入社したのは私が二十四の頃で、残暑の厳しい八月だったと記憶している。

都内のターミナル駅から地下道を通り、地下道を抜けて徒歩二分の好立地で、近くにはフルーツパーラーもあったし、地下道には美味しいご飯屋さんもたくさんあった。体調を崩しがちな私が虚ろな目で壁を見ていると、父は唐突に財布から五千円札を出し、「パフェを食べなさい」だとか「ハンバーガーを食べなさい」だとか、今よりももう少しだけ過保護に接した。

その延長線上みたいに、ある日父は「簿記を勉強しなさい」と告げた。
「まずは三級だけで良い。近くに簿記学校があるから、仕事の勤務時間内でいいから通いなさい。学費なら出すし、受講時間中でも仕事のお給料も出すから」

今となればこんな好条件は無い。こいつは本当に娘に「生き延びる力」を身に付けさせることに必死なのだな、と他人事のように感心までしてしまう。

しかし当時の私はそれを重荷に感じた。

当時私は大好きだった男の子と同棲中で、彼は高卒・無資格でエンターテイメントに携わる仕事をしていた。碌な男ではなかったが、彼との幸福な煉獄はこの本に収まっているので興味のある人は読んでみてほしい。

彼が身軽に、或いは無責任にその日暮らしをしているもので、私もそれにすっかり染まってしまっていた。
彼曰く学問は「暇な奴がやる金のかかる趣味」。実際に、彼は私の友達のミオちゃんが院進したことを「金の無駄」「親不孝」と密かに糾弾した。
ミオちゃんの院進を素晴らしく志の高いことだとは思ったけれど、当時の私はとにかく自分に自信が無かった。

そもそも勉強が嫌いだった。
私は中学受験をして以来碌に勉強をして来なかった人間だ。その中学受験さえ、小学校六年生の頃てんかんを患ったことで追い込みが効かず、当時目指していた御三家から偏差値を二十も下げて、通いやすい実家の近くの不本意な学校に進学している。

中学に入ると同時に決意したことは「勉強しないこと」だった。
私にとって勉強は寝ずにやることを強要され、わからないところがあれば叩かれて、大きな声を出されながらやるものだった。二度と嫌だった。

高校にはエスカレーター──とは言っても成績が悪かったので進学テストは受けた──で進学し、大学受験でさえ適当にそこそこに勉強してまあまあの大学に入ってしまった。
そこで彼と知り合い、勉強をするということの意味がわからないまま、同級生にいじめられるままに退学した。

つまりどういうことか。
勉強から得られる達成感を一切味わうことなく二十四になってしまったのだ。

「また出来ないことを味わうのは嫌だ。やりたくない」

碌々やったこともないくせに挫折していた私は断った。父は粘ったが、そのうちに私が怪我(先述の本に詳しく書いてある)の結果退職したので、その話はなあなあのまま閉じられた。

さて時は流れて齢三十。
私は転職にえらく苦労していた。

先の彼と結婚し、体調をあまり見かけないくらい大幅に損ない、何とか父のツテで就いた仕事はめちゃくちゃな会社だった。
私は健康を損なう働き方しか許されず、転職を強く望んだが──そもそも、私は資格もなければ学歴もない、フィールドとなる仕事のジャンルもない。三十にしてそれで転職は不可能だった。

履歴書を送ってはお断り。
それを繰り返してやっとのこと就職したのは、またもや父の事務所だった。

「簿記三級。資格は取らなくても良いから勉強しなさい。学校に通って、理屈を把握しなさい。それじゃなきゃ仕事にならない」

当時私は実家暮らし。
父はテレビから垂れ流している海外ドラマから目を離さずにそう言った。

「……わかった」
「学費は出す。納得いく学校を選びなさい」
「ありがとう」

祭めぐる、人生の転機である。

実務の経験が長いため、日商簿記三級の滑り出しは順調だった。
借方貸方、という左右の概念もサラッと飲み込めるし、現金が減ったら貸方に来る、とかいう基礎の感覚も実務で経験済みなので飲み込みが早い。

途中、一人暮らしに漕ぎ出して体調を崩す期間は挟んだけれど、勉強は思っていたより辛くて、それよりも楽しかった。

私、否、人間は誰でもきっと、「わからない」ことに遭遇することが嫌いだ。
私は人一倍その気が強く、「わからない」にぶち当たるたび酷く落ち込み、しかし絶対に高得点で合格したいという気持ちがあったので何とかかんとか友達に励まされながら勉強に励んだ。

仕事の閑散期には業務時間中に問題集を解くことも許された。
本試験予想問題集を買うお金は経費で落ちた。
電卓のキーの並びはスマホのキーの並びとは違うので、当初は電卓にすら四苦八苦していたのに、手元を見ずとも電卓が叩けるようになった。

心が折れそうになったら、私がどんな泣き言を言っても背を摩らずに叱ってくれるタロットに愚痴を言った。彼だか彼女だか、その紙ペラは当たり前のように私を叱咤激励し、時折「理解の浅い単元があるから見直すように」と忠言もしてくれた。実際にあったのでタロットは舐められない。

インプットの期間が伸びに伸びて、本来三ヶ月で終えるべきインプットに半年かかった。
試験日を定めてしまわなければ勉強するお尻に火がつかないと腹を括って、試験日を十月のとある日に定めた。私は原稿ですら、尻に火がつかないと筆が進まない。

一週間のうちの空き時間、その殆どを勉強に費やした。
原稿をしたい気持ちはあったけどそれを堪え、とにかく問題を解き続けた。
私は熱中していた。

だって楽しかったのだ。嬉しかったのだ。
予想問題集の点数がどんどん伸びていき、うち一回は九十二点という大台に乗った点数も叩き出した。

わからないことは悔しかった。だから突き詰めて理解した。
わかることは嬉しかった。
否、「出来ないはずの勉強」が思ったより出来ることが嬉しかった。

「私さ、意外と勉強出来ないわけじゃないのかもしれない」

私が勉強中、よく作業通話に付き合ってくれたアサミちゃんに溢せば彼女は「そりゃあねーっ」と明け透けな声を出した。

「自分のこと何も出来ないと思うのやめな。きみは頭も悪くない、お勉強できるタイプだよ。書くもの読めばわかる。勉強出来ないって言うのやめな、勉強が好きじゃないって言いな」

さて迎えた試験日。
指定した会場で、PCを使って試験を受ける形式を取った。
持ち込み可能なのは電卓のみ。筆記用具すら、メモ紙すら支給される。
誤算が一つ。テーブルが異様に狭い。これまた支給されたクリップボードに挟んだメモ紙にガリガリとボールペンでメモをしながら、問題を解く形式になる。

願わくば九十点。最低でも八十点。
私は問題を一通り解き終え、試験時間を余らせていたので見直しをし、試験を終える。

八十五点だった。
中学の頃から見ない点数だった。

身体が震えた。
私にはやってできないことなんて何もないのだと思えた。
人間には無限の可能性があるのだと、殆ど躁状態になった頭でそう思った。

数日後、私は友達のモカちゃんの家でダラダラ煙草を吸っていた。彼女もチェーンスモーカーで、二人してキッチンの換気扇の近くで絶えずお喋りしながら煙草を吸っている。

「てか昼飯何にする?何でも良いよ。簿記合格のお祝い。奢るよ」

モカちゃんはそう笑ってウーバーイーツの画面を見せてくれた。

「ピザにする?めぐるさんピザ好きだもんね」
「お野菜がたっぷり挟まった無限に美味しいサンドイッチが食べたい……」
「物足りなくない?」
「食べたい……」

私はエヘエヘ笑いながら彼女に甘えた。
レモネードと、お祝いのキャロットケーキまでつけてくれる。

「次はどうするの」
「一本書いて、そうしたら次は二級。二級もやりたい。二級まで取れた上で実務五年積めば就職先にあぶれない」

私が口いっぱいにサンドイッチを頬張りながら言えば彼女は平素鋭い美貌を和らげて笑った。

「めぐるさんなら出来るよ」

一本書き終えて、現在。
私はまさしく日商簿記二級を勉強中だ。

講師の先生との面談は二週間に一回にしてもらった。三級に比べて跳ね上がった難易度に心が挫けそうなので、まめに指針を示してもらわないとやってられないのだ。本当は週一にしてほしい。それを言って良いのかわからない。

何故難易度が跳ね上がるか。

日商簿記三級は商業簿記の簡単なところだけを扱うが、二級では難しいところを扱い、しかもそこに工業簿記という聞きなれないものまで混ざってくる。純粋に物量が増える上、工業簿記は異質なのだ。

「商業簿記で慣れてる人ほど工業簿記詰まるんですよ」

私がヒィヒィ泣きつけば講師のイシダさんは淡々と言った。

「似てるようで違うから混乱するんです。だからうちの学校では、商業の前に工業をやる。ここのインプットが早ければ早いほどいいです。商業のインプットをしながら工業の復習をできるので」
「いや、この状況、昔やったことがあって。明確に覚えがあって」

私はぼんやり天井を見ながら細い声を出した。

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