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サクランボと家族の話【日記:2023/7/30】

こんなことを言うとあまり良くないのかもしれませんが、正直言って私は自分の家族のことがそんなに好きではありません。
勘違いしないで頂きたいですが、嫌いというわけではない。ただ、家族特有の特別な思いとかがなく、さほど興味が無いというだけです。
絶縁などもしているわけでもないので、数年に1回ぐらいは実家に帰るし、連絡があれば適当に返したりもする。地元の古い友人と同じ感覚。

一般的に言えば、私は親不孝者のドラ息子なんでしょうね。
でも、記憶を回顧してみても家族を好きになるようなイベントが何一つ思い出せないから仕方がない。ちょっとした夫婦喧嘩に遭遇とか、兄の進路について口論している場面に遭遇とか、微妙に気まずいシーンは覚えてるんですけどね……ほとんどプラスのないまま、微マイナスを繰り返していたらこんな風に育ってしまいました。

思えば、私は昔から家に居つかない子供だった気がします。
6歳から15歳までバスケのクラブで週6練習だったし、たまの休みには友人の家に入り浸っていた。なんなら、お盆休みに家族が墓参りに行っている時でさえ、私は友人の祖母宅に行って田んぼを耕していたぐらいです。
その家の子供です、みたいな面をして一緒に昼食を頂くのが得意技だったなぁ……

外に出るのが楽しかった、というより家に居るのがあまり好きではなかったんでしょうね。はっきり言って家は貧乏で、他所に沢山お邪魔すればするほどそれは痛感しましたし、自室もなくパソコンもない場所に帰っても本を読むかゲームをするかぐらいしかやることが無かったですし。
ピカピカの二階建て住宅、大きなワイド型のTVに劣等感を刺激されると分かっていて遠くに行きたくなる程度には。

そういえば家族旅行というものも、まともに行った覚えがありません。
少なくとも、家族を伴って県外に出たことは一度もないし、外食ですら私が10代になる頃にはもうしなくなっていました。
私が生まれる前には時たまあったらしいですが、二人目ができてお金の余裕がなくなってしまったんでしょう。貧困とはとかく悲しいものです。
サラリーマン二年目の年収が50代の父親の年収を上回ってしまった時、深くそれを痛感しました。

私だって、家族を愛せるものなら愛したい。
でもどうしても「あんまり好きじゃない」んですよね。
私の場合、単に性格が悪いだけだと思いますが、こういう人は他にもいるでしょう。時にはより深い貧困、虐待などの根深い問題を孕んで。

産んでくれて、育ててくれてありがとう。それは確かに正しい言葉でしょうが、あくまで親側から視点に立っての言葉でしかない。
子供からすれば、それは製造者責任を果たしているに過ぎないという捉え方だってできる。

重ねて主張しておきますが、私は家族を恨んでいる訳でも嫌いなわけでもありません。ただフラットな関係でありたい、特に自立した今となっては、そう思っているだけです。
親だから上、子供だから下ということはなく、ただ役割の違いによって「育てるもの」「育てられるもの」に別れているだけなはずですから。

太宰治の「桜桃」を読みながらそんなことを考えてしまった。
美しくない、家族の中のちょっと嫌な感情が繊細に描かれている良い作品です。私のようなひねくれものにはよく馴染む。
太宰治も「会ったこともないけど、実の親は大事」みたいな展開が大嫌いな人間だったのかな。もしそうなら少しは安心できる。薄情も文学的感性と言い張ることができる気がするから。


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