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三次元空間内における善行について【日記:2023/09/27】

 街を歩いていると、道を尋ねられることがよくある。いつも一人で歩いていて暇そうに見えるからかは分からないが、大体月に1回程度のペース。今日も三鷹を歩いていたらおばあさんに話しかけられた。何用かは知らないがどこぞの法律事務所を目指しているとのことだったので、ビル下まで同行。善行ポイントを1獲得させていただいた。

 三鷹の街を歩いたのは今日は初めてだ。「この辺詳しくないです」とでも言って断ろうと思えば簡単だったのに、どうして私は老女の道案内なんかを買って出たのだろうか。しかも、わざわざGoogle mapの経路機能の使い方まで教えて。
 別に自分は優しい人格でもおばあちゃん子でもないし、親切にしたい気分だったわけでもない。子供と老人は基本的に苦手だし、善行するにしては今日の私の顔面筋肉は死んでいた。今になって、もうちょっと朗らかにしてあげれば良かったなと思うくらい。声も低いし態度もぶっきらぼうだし、乙女ゲーのそういうキャラみたいになっていた。

 自問自答するまでもない。理由はもちろん、こうして今日の日記のネタにするためだ。わざわざ目的地まで同行したのは文字数を稼ぐためであり、その間で何か面白いことを老婆が言うのを期待していただけに過ぎない。おさげ髪のヒロインみたいな真っすぐで暖かい自愛の心とは違う。浅ましくも愚かしい、ただの虚栄心。私の嫌いな現実の心の軽薄さだ。

 そういった自己顕示欲的な偽善は三次元世界を満たす自由主義的な愛の形とどこか似ている。永遠の愛を誓いながら、数年も待たずに不倫にいそしむ夫婦とか、駅前のマックで通りかかる女性の品評会を始める男子高校生の集団とか、そういうものに。

 無論、誰かを否定する意図はさらさらないが私はもっと純粋な、自信を犠牲にするような博愛や彫像になってしまうほどの堅い純愛の方が好きだ。
 衛宮士郎と言峰綺礼の例の通り、もしそんな奴がいたら逆に異常者なんでしょうけども。すでに脳が鉄になってしまった私には、そちらの人々の方が魅力的に見えてしまう。

 先日やったゲームで「人の創作物に触れすぎた人間というのは、たいてい性格が悪いものだ」という一文があったが正にその通りだ。整然としたプロットに慣れきってしまうと、現実の混沌さは耐えがたい。親や教師が「漫画ばっかり読んでないで、友達と遊びなさい」という意味はこういうことなのかもしれない。皆さん、気を付けてくださいね。

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