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合理的に不合理【日記:2023/7/23】

少し前に買ったタロットを、最近になって触り出している。
各カードの象徴や占いの方法も、なんとなくだが覚えた。
相手がいないので、適当にペラペラ捲っているだけだが、元カード―ゲーマーなので紙束が手元にあるだけで楽しくなってくる。遠目で見れば『Magic The Gathering』みたいなものだ。

これが結構面白い。
色々象徴とされるものを関連付けていったりしながら、一つの話として成立させていくのはトークの練習にもなる気がするし、テキストに書いていないことを覚えていくというのも、カードゲームの裁定みたいでどこか懐かしくもある。

図像を見ながらあれこれ考えていたら、ふと「私って昔は占いとか大嫌いだったな」ということを思いだした。
そう言えばそうだった。最近はSNSの流行に乗って、ちゃっかり16タイプ性格診断を受け直したり、タロットやジオマンシー、占星術を調べて遊んでいるが、学生時代はこの手の代物を嫌悪すらしていたと記憶している。
今思えば、信じないのはともかくとして、別にアンチになる必要はねぇんじゃねぇのと感じるが、当時はどんな心境だったんだろうか?

多分だが、合理的なのが素晴らしくて、オカルトやスピリチュアルみたいな非合理に身をやつす奴は馬鹿だとか思ってたんだろうな……
それはそれで一つの考え方ではあるけれど、今の私には少しつまらない捉え方のように感じられる。
合理のみを人生の根拠においても、最後に待ち受ける死によって、合理は全て消滅させられてしまうのだから。
合理を基礎に起きつつも、それに拘泥しない。合理ではない何かを手にするためのポイントとして使うべきなんじゃないだろうか。

それにそもそもだが、占いやオカルトを非合理の極み、として単純に考えてしまうのも狭量かと思う。
占いを、確定的な何かを知るためと考えるのであれば、根拠薄弱というのは正しいだろうけど、実際はそうではなくて無意識へのカウンセリング的な意味合いの方が大きいらしいし。
それを無価値というのなら、宗教や精神科医やマインドフルネスなども纏めて否定することになってしまう。
さすがに世界の8割を否定して、自分たちだけが正しいというのは傲慢が過ぎるだろう。

タロットと関係深い「セフィロトの樹」の概念によれば、より高次の自分になるためには、博愛の心を持ち全ての物を愛する気構えが必要らしい。
占いを肯定できるようになった自分は、一つ高みへ上ることができるようになった、ということだろうか?
よく分からないが、これからも楽しんで、合理的に不合理に生きたいと思う。まずは近隣の知らん喫茶店を攻略するところから、だな。




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