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世界は切り抜きでできている【日記:2023/09/28】

 明治~昭和の文豪の中では、一番『太宰治』が好きだ。”待つ”や”葉”、”人間失格”等で見られる陰キャな独白も、”走れメロス”等で見られる人間賛歌的な思想も、”女生徒”等で見られる美少女オタク的な観察力も全て好きだ。基本的に作家に対しては興味がない私だが、太宰だけは彼の作品というだけで読みたくなってくるぐらいに。
 だから昨日、三鷹にあった彼の家を再現した展示室に行ってきた。『三鷹市美術ギャラリー』という駅前にあるスペースでの展示だ。

 かの大作家が10年も住んでいたとは思えないほどこじんまりとした、それでいて『太宰治』らしい質素ないい家だった。彼のような人間には豪奢な邸宅よりもこういう場所の方が似合う気がする。解釈一致だ。

 一方で意外なことも分かった。展示室にはパネルが設置されており、そこで彼の生い立ちや生活が説明されているのだが、どうやら彼は割と子煩悩だったらしいのだ。撮影禁止区画だったので、直接見せられないのは残念だが、飾られている写真は満面の笑み。とても演技には見えない表情だ。少なくとも自著『桜桃』で「子供より親が大事、と思いたい。」などと書いた人間の顔とは思えない。
 内心どう思っていたかは分からないし、子供を愛することはきっと良いことのはずなんだろうが、なんとなく解釈不一致を味わった気分になった。私の中の太宰はもっと捻くれていて、子供や妻を持っていても愛を解せず苦しむ人だったから。

 この機会に、新しい一面を知れたことを喜ぶべきか、ちょっと身勝手な幻滅をするべきか悩むところだ。アイドルとかの結婚報道でキレ散らかすオタクのことをダサい、と思っていたが少しだけ心情が理解できた気がする。結局、自分が見ていたものは切り抜きで幻影なのだと分からされた気がして、少し寂しくなる。

 まあ、誰にだって生活はあるし、全ての面を他人に見せる訳ではないので仕方がない。自分の見たものは、あくまで自分の場所から観測できた一つの像でしかないのだから。それは万華鏡のように、角度を変えれば変化する面の一つでしかない。それを忘れると、反転厄介アンチに成り下がってしまう。それは嫌なので、私は太宰の子煩悩な一面を受け入れることにする。寂しいものは寂しいけど、子煩悩の癖に『桜桃』みたいな作品を書いた彼とその周辺の反応を想像するのはそれはそれで楽しい。 

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