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食べることと人間らしさについて【日記:2023/8/19】

食に興味がない、なんて言い方をすると斜に構えているみたいで恥ずかしいが、実際私は食べるものに頓着しない方だと思う。
嫌いなものではないというのが最重要で、積極的に好きを探しに行ったりはしないし、いつも値札と調理時間の短さばかりを気にして生きている。

今日の朝もいつものようにコーヒーを淹れながら、バナナ1本とセブンイレブンのチョコスティックメロンパンを無感動に消費した。
およそ一食150円、非常に経済的である。

いつまでお金のない高校生みたいなことをやってるんだ、と自分に呆れるときもあるが、どうにも食に対するやる気が湧いてこず今に至る。
全部、味をすぐに忘れてしまう私の脳がいけない。美味しいという言葉だけじゃなくて、そのクオリアもしっかり残してくれればいいのに。「しょっぱかった」程度しか覚えていないのでは、焼肉も海鮮丼も食べるかいがない。

今日の昼は久しぶりに友人と会った。
そして、彼おススメのラーメンを食べに行った。
「灯花 アトレ上野店」の特製鯛塩らぁ麺 大盛 1,210円。
普段なら食べない高級メニューだが、器のデカい彼が奢ってくれるというので頼んでみた。

美味しかった、と思う。月並みな感想ではあるが。
しかし、どう美味しかったのか、と聞かれるともはや何も分からない。海鮮系の塩味が~とか、細い麺にスープが絡んで~とか、どこかで聞き馴染みがある透明な言葉なら吐けるだろうが、そこに在ったはずの本質は揮発してしまっていて無意味だ。

ある種、子供じみたことを言っているのは自覚している。
食べたものがなくなるのは当然だし、食べたものの味をそこまで正確に覚えていられる人なんてほとんどいないだろう。
だから、こんな馬鹿な問題意識を持つことは止めて、大人しく地方に行ったらその土地の名産を食べるべきだと思う。
でもどこか、「味なんてすぐに忘れるのに」なんていう考えがぬぐえない。

軽く用事を済ませ友人と別れた後、一人喫茶店に入った。
注文したのはイタリアンソーダ ラズベリー Tall 420円。
普通にコーヒーを頼むつもりだったが、色合いが可愛く見えたのでつい注文してしまった。

甘くて冷たい炭酸で、薄くラズベリーのすっぱい味がした。
美味しかったので、今後もこの店に立ち寄ることがあればまた注文したいと思う。
なんとなく、生きるっているのはこういう喜びの積み重ねなんだろうな、とその時感じた。

雑食性動物として進化してきた人類が、食の合理性を捨てて幾万年。
何でも食べられるは、何でも食べなければ生きられないの裏返しだ。
でも、草だけでも肉だけでも足りないからこそ、人間は食文化というある種非合理なものを作り上げてきたのだろう。
だとすれば、私ももっと食に興味を持つべきなのかもしれない。エンターテインメントという、道楽を好む一人の人間として。
生きることが好きな人は、きっと食べることも好きな人だろうから。


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