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資本主義とかき氷【日記:2023/7/25】

昨日、酒のカクヤスに行ったら、良さそうなワインが売っていたので、久々に買ってしまった。500円。

青い色合いが綺麗なスパーリング。
その透明度に騙されて、私はワインを開けるにはコルク抜きが必要であることをすっかりと失念していた。
気づいたのは家に帰って、つまみの準備も完了した後。封を切ってみると、先端に嵌っていたのはザラザラした茶色の物体。そうコルクだ。

幸い、出っ張りが大きく手で開けられるタイプだったから良かったが、もし奥まで入っているタイプだったら、ドライバーを引っ張り出して格闘する羽目になるところだった。
こういうことがあるから、コルク抜きを買おうかなとたまに思うのだが、よく考えてみると実際に使う機会がなさすぎて無駄でしかないと気づく。
これもひとえに、コルク抜きがコルク抜きの役割しかないからだと思う。私が拷問人なら、コルク以外にも爪辺りを剥がすのに使えていたかもしれないが、残念なことに私は品行方正な無職だ。

色々な街を歩いたり、店に行ったりすると、こういう使い道が限られる道具が結構多いことに気づく。
近頃目につくもので言えば、かき氷の旗なんかもそうだ。

我が物顔で街を占拠しているものだから、普段は疑問に思わないけれど、冷静に考えてみるとかき氷という一部の食べ物、しかも夏の間にしか食べないようなもののために、専用のデザインがあるというのは結構おかしい。
調べてみたところ、明治頃から続く慣例のようなものが今も残っているという感じらしいが、それにしたって節約できているのがたったの二文字、”かき”だけではもったいなく思える。

使われないものは淘汰され、消えるか統合されるかというのが現代、資本主義社会という物。
生活の中ではそれがこの世の全てであるように思えてしまいますが、こういった限定的用途の道具を見ると、生きるというのは決してそれだけのことではないということを思い出させてくれるような気がする。

実用性はないが、そこには風情がある。
マイナスドライバーでコルクを抜いていては味わえない境地が。
だから、無駄をもっと楽しむべきなのかもしれない。
やり過ぎない程度に。調子に乗って買いすぎると、使わないグラスで棚が圧迫されて、やがてワイングラスで素麺を食べだしたりするからな。

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