見出し画像

水際まで至る意欲【日記:2023/7/31】

最近、河川敷沿いの街を散歩するのが習慣になっている。
定期的に行ったことがない街を訪れるようにしているのだが、何か基準がないと決めづらいと思って、そう目標を定めた。

そんなわけで、近頃は川岸を中心歩いているわけだが、今日話したいのはそんな場所に特有なグラフィティについての話。
まずはこちらを見て欲しい。

これは二子玉川駅近くの橋の下で見つけたポイントなのだが、中々すごいと思わないだろうか?
様子を見るに、多くの人間が作品を描き、そして行政によって対策され消されたという感じなのだが、思いっきり川の水が流れ込んできている。
人目につきにくく街中に比べれば他者への迷惑の度合いが低いということから、橋の下でグラフィティ文化が栄えるのは理解できるのだが、水に浸かってまで行いたいほどの意欲だとは思っていなかった。
しかも、辺りの雰囲気から察するにわざわざ石を落として水をせき止め作業箇所を作っていたような形跡すらある。

もちろん、それは全くもって褒められることではない。
仮に芸術的価値があったとしても、公共物に描くのは不法行為であるし、もし川のせき止めが事実であるなら、それも水質の観点などから問題だろう。
それはやっている側の人間も分かっているはず。彼らの意欲はどこから来ているのだろうか?

大体地上2m~3mぐらいの位置
引きで写真を撮っておけばよかった……

似たような例は他にもある。
高架下のスペース、明らかに普通に立つだけでは届かない場所にグラフィティが描かれていたり。脚立まで持ち込んでいるならば、相当なやる気だ。

私個人としては、こうした行為に強く”No”とも”YES”とも思わない。
様々なリスクを負ってまでやる芸術的な叫びがあるならば、それについては称賛したいが、それはそうと法律的に違反であるという事実は変わらない、そう考えている。

良いか悪いかで言えば、間違いなく悪寄り。
しかし、それは無価値であるということを意味しない。
悪には悪の生活があり、叩きつけたい主張があるものだから。
社会的なルールは置いておいて、一人のオタクとしてはそんな彼らの激情は興味深く見え、その意欲には尊敬の念を覚えるところがある。

それは表通りへの問題提起なのか、ただの不良の暇つぶしなのか、詳しくない私には分からない。
でも、見えないところにひっそりと佇むグラフィティを見ていると、

「水に濡れても、高くて手が届かなくても、リスクがあろうとなかろうとやりたいならやるのがストリートの流儀だ」
そう言われているような、そんな気がしてくる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?