私が公募勢になるまでの長い話(note始めました)
はじめまして、こんにちは。硝子ゆるといいます。
2022年、夏。noteを始めることにしました。
なんだか「note初めて!」みたいな感じですが、実はnoteに登録するのはこれで二回目です。
前に少しだけやっていたんですよね、note……。別名義ですが(小説を書く片手間に記事を書くというスタンスで、内容も小説とは全く関係ないことでした…笑)。
でも、そのときはすぐに飽きて一ヶ月くらいで辞めてしまったのでした。でも今回はちゃんと続けていく予定です! 本当です!
そして、再度登録してはみたものの、投稿する記事は何にしようか、なかなか決められなかったので、ツイッターでアンケートをとって決めることにしました。
結果、「創作活動について」に一番多く票が集まったので、今回は私が公募勢になるまでの経緯について書こうと思って頑張って書きました(少々、長くなりますが、どうか最後までお付き合いください…)。
現在の私は学生で、作家志望です。
作家になる方法はいろいろありますが、手っ取り早いのが作品を公募やコンテストへ応募して賞をとることだと思います。
作家になりたいという気持ちがあって、コンテストや公募に作品を応募する……そんな私のような人を『公募勢』というのだと最初に伝えておきます。
私が、初めて小説を書いたのは小学校二年とかそのくらいだったと記憶しています。
たしか国語で、物語を書くという授業があったのです(ちなみに「小学生の姉妹が捨て猫を拾って親にバレないように家の物置きで飼う」という内容の話でした)。
このとき書いた小説は先生やクラスメイトに褒めてもらった記憶があります。
でも、このころの私は文章や小説を書くことよりも、断然絵やイラストを描くことの方が好きな子供でした。
本当に子供の時の私は絵を描くのが大好きで、小学低学年から中学に上がるまでの約4〜5年間、時間が許すかぎり、鉛筆で手を真っ黒にして家でも学校でもずっっと自由帳に漫画を書いていたんです。
将来の夢は?と聞かれると必ず「漫画家」と答えていて、全ページにわたって漫画を描かれた自由帳が70冊以上あります。
一体こんなに何の漫画を描いていたのかというと、喋るプリンが出てくるゆるーいギャグ漫画(一次創作)でした。人間は一人も出てきません笑
当時の私はち〇まる子ちゃんが大好きで、その影響をモロに受けている……というか、ほぼほぼパロディーのような感じでした。
この間、当時描いていた漫画をおそるおそる見返してみたんですが、絵は拙いし、コマ割りは適当だし、話も支離滅裂だし……(汗)見なければよかった……と羞恥に悶えました。
そんな感じで、今みるとおそまつな出来ですが、当時の私はそれでも鉛筆で手を真っ黒に汚しながら、漫画を描くことに一生懸命になっていたのでした。
創作するということは、こんなにも楽しいことなのだと気づかされたのもその漫画を描きはじめてからでした。
つまり、かっこよく言うと、この漫画こそが私の「創作活動」の原点だったという……。
でも、ある日、私の身に、漫画を描くことや絵を描くことが、全く楽しくなくなってしまう出来事が起こりました。
それは、小学校六年になったとき。クラスに自分よりも絵の上手い女の子が現れたのです。
本当に桁外れの画力だったと思います。親が絵のコンクールで賞をとったりしているらしいという噂でした。
いつも私が図工で描く絵や、漫画を褒めてくれていた先生やクラスメイトたちも、それ以上の反応でその子の作品を褒めていました。
内気な自分の唯一の特技が絵を書くことだったのに、それすら奪われたようで悔しくてたまらず、トイレで何回も泣きました。
絵を描けて楽しかった図工の時間も、「あの子にだけは負けたくない、あの子よりも上手く描きたい」とばかり考えるようになり、必死にがんばりましたが、彼女の技術には全く歯が立ちませんでした。
「自分があの子の画力を上回るようなことはきっと一生ない。だって、私と違ってあの子にはもともと絵を描く才能があるんだから」
小六にして、私は世の中の厳しさを知って、その子には勝てないと悟りました。そして、四年も描きつづけていた漫画もあまり描かなくなりました。
それから半年ほど経ったときでしょうか。将来の夢について作文を書いて発表するという授業があり、私はとても焦りました。
将来の夢と言われても、もう何を書いたらいいのか分からなかったのです。
ずっと、漫画家になりたいと思っていたけど、絵を描く自信をへし折られて以来、漫画をあまり描かなくなり、もう漫画家になりたいなんて思わなくなっていたから。
なぜ漫画家になりたいと思わなくなったのか。
その理由は二つあって、一つは、私は小学五年生のときに二度、少女漫画雑誌の漫画コンテスト(漫画の公募みたいな感じかな…)に自分の作品を送っていて、その作品が両方とも落選するという経験をしたから。
この出来事で、漫画家への道からどれだけ自分が遠いところにいるのかを思い知ったのです。
そして理由のもう一つは、いわずもがな、あの、絵が大人顔負けに上手い女の子との邂逅です。
コンテストの落選を知ったときは、まあ確かに落ち込みましたが「私はまだ小学生なんだし、これからたくさん練習して上手くなればいい」と楽観的に考えていました。
でも世の中には、あの子のように天才的に絵が上手い人間がいるということを身をもって知ってしまい、自分のようなちょっと絵が上手いだけの凡人がいくら練習したところで漫画家になんてなれるはずもない、運良くなれたとして成功するはずがないと、気づいてしまったのです。
それに、あんなに絵が上手い子が同じクラスにいる以上、私みたいな多少絵が上手い人間が、あの子よりも下手な私が、「将来は漫画家になりたい」だなんて恥ずかしくてとても言えない。そう思っていたのです。
とはいえ、授業なので、将来の夢は発表しないといけません。なんでもいいから、ほかの子より得意なものはないだろうか、将来の夢や就きたい職業につなげられるような特技はないか、と幼い私は必死に自問して、そして思い出したのは、昔、国語の授業で書いた小説をとても褒めてもらったことでした(国語の成績もよく、国語は好きでした)。
けれど、このとき、授業以外で小説を書いたことのない私が「将来は小説家になりたい」と書くのはなんだか憚られて、「将来は文章を書く仕事に就きたい」とぼかして無事に発表を終えました。
中学生になる頃には、「絵で負けた」という私の負った傷もだいぶ癒えました。けど、絵も漫画ももう描かなくなっていました。
そして、将来の夢を「文章を書く仕事」と変更したからには、国語の授業を頑張らなきゃと思い(真面目か?)、私は小学校の時よりも力を入れて国語の授業を受けるようになりました。
特に感想文を書いたり、詩を書いたりするときなどは力を入れて取り組んでいたと思います。
「きっと絵を描くことは本当に私に向いていることじゃなかったんだ…! 文章を書くことも人より上手いってよく言われるしこれが本当に私に向いていることだったら、絵を描いていたころより褒められるようになるかもしれない…!」
そんな思いがありました。
頑張ったかいあって、国語の先生には国語の授業で感想文や詩や短歌を書くと褒められ、私はたいへん満足しました。
たまに、「特に良かった」と言われ皆の前で読み上げられたりすることも多く、皆の間で、私は「絵が上手な硝子さん」から「文章が上手な硝子さん」へと、印象が変わっていたかと思います。
私は心底、ホッとしていました。
みんなの中では、私はもう「絵が得意な人」ではなく「文章を書くのが得意な人」だから、絵が上手いあの子と画力の差を比べられたりしなくて済む、と。
それまで、比べられるようなことはありませんでしたが、画力の差は歴然としていたので彼女と同じ「絵が得意なキャラ」でいつづけたら、いつか比べられる機会が訪れるだろうと私はひそかに怯えていたのです。
こうして、文章を書く能力を周囲から認められ、文章を書くことにハマりつつある私でした。
でも、私が一番うまくかける文章は「小説」だし、授業で小説を書く機会が早く来ないかなーと心待ちにしていたのですが……。
……国語の授業で小説を書く機会はなぜかありませんでした(詩とか短歌を書く機会はあったけど)。自分の一番得意な文章の媒体は「小説」なのにな、と過去に褒められた経験を思い出しながら少し物足りなく思っていましたね。
そして、私に転機が訪れます。
中学二年の冬に、文豪たちがイケメン化して異能力バトルを繰り広げる某アニメにどハマりし、グッズを買い集めるようになり、二次創作小説を書くようになったのです(この時期、めっちゃオタクしてました…)。
中学三年のときにはp●xivに登録して、二次創作小説を投稿したりしていました(※ちなみにアカウントはすぐに消しました)。
自分の推しキャラの小説を書くのは本当に楽しくて、昔、漫画を描いていたとき以上の楽しさがありました。
もうこの頃には完全に、私は絵を描くことなど忘れ、小説を書くことが本当に心の底から楽しくて仕方なくて大好きになっていました。
ですが、当時はまだ作家志望ではなくただのオタク。書いている小説はアニメの二次創作ばかりで、一次創作は全くやっておらず、しかもその二次創作小説も、ほとんどが未完のままというありさまでした。
しかし、中学三年の5月に、私は生まれて初めて公募に一次創作の小説に応募します。
中三の初夏、ゴールデンウィークが終わり、周りの皆が少しずつ高校受験への意識を高めていくなか、帰宅部の私は、心配ごとがありました。
それは、「成績が上がる気配がない」ということ、もう一つは、「自分は、帰宅部だから部活をしていた皆より内申書に書くことが少なくて、受験の時に不利なんじゃないか」、ということでした。
後者について、自分なりにネットで調べてみたら、「熱中できる課外活動があれば不利にはならない」(※あくまで当時の情報です)とあり、そこで私は「課外活動…してみるか」と考えました。
でも、私に出来るのは、文章を書くことだけ。
どうしよう。いや、でも、この「文章を書くこと」を課外活動に生かすことはできるはずだ。作文コンクールに出して賞とかとれば、それは、「熱中できる課外活動」になるのではないか?
いや、でも、作文はあんまり好きではないし、なるべく書きたくない。
私の一番好きな文章の媒体は「小説」だ。じゃあ、小説を書いて賞とかをとったら、なんか高校の先生も「この子は、部活には入ってないけど、小説を書くことを頑張っているんだな〜」と心証がよくなるし、内申書にも小説を書いて受賞したことを載せてもらえるかもしれない。
そう思いたち、私は小説を公募に出すことに決めました。なんてあさはか!
家のノートパソコンで私はさっそく、小説の賞を調べました。
でも、どれも規定枚数が100枚とかのものが多く……。
読書感想文を原稿用紙で5枚くらいしか書いたことない中学三年生にはハードルが高く感じられます。
あんまり長いのは書ける気がしなかったので原稿用紙5枚で応募できるというマイナーな児童文学賞を見つけ、そこに目星を定めました。ちなみに児童文学だいすき!とかだったわけではありません。
このくらい短いものなら最後まで書き切れると思っただけです。
さらに言うと、執筆にどれくらい時間をかけたかについてはもう覚えていません(たぶん、超短期間だったとは思うけど…)内容もなんか、フワッとした感じの雰囲気小説だった気が……。
一次選考とか、二次選考とかの過程は発表されないタイプの賞で、受賞作品だけが数ヶ月後に発表される感じのようでした。
私は、締め切りの当日に家の近くのポストに原稿が入った封筒を投函し、わりと自信があったので、結果発表の日までわくわくしながら待っていたのですが……。
結果は落選でした。
自宅でノートパソコンで、その結果を見た時、「ああ、やっぱりな。受賞してたら連絡とかくるはずなんだもんな……」というどこか納得する気持ちと「マジか……」というショックな二つの気持ちがミックスした気分になりました。
それと同時に、ある思いが込み上げてきました。
「自分には賞とか無理だ……。漫画のコンテストだって落選したし、きっと賞とかコンクールに出すの向いていないんだ……もうこういうのに応募するのは今後いっさいやめよう……自己満足でいいじゃないか……」
余談ですが、私はよく人から「諦めが早すぎる」と言われます。
でもまあ、絵が上手い子に才能でぶん殴られたときと比べたら全然たいしたことないショックで、筆を折るまでには至りませんでした。
私はその後も完結しない二次創作小説ばかりをルーズリーフに書きつづり、(受験勉強をないがしろにして志望校のランクを落としまくったことは秘密です)制服が可愛い高校に入学しました。
同じ中学の子は何人かいたけど、仲良い子はいなかったので、人間関係はほぼゼロからのスタートです。
友達とかできるのかな〜って思ってたけど、人見知りしすぎて、なんだか誰にも心を開くことができず……。
皆がうちとけていくなか友達は一人もできず、あっという間にクラスで孤立しました。
ぼっちの高校生活が楽しいと思いますか? 否! 楽ではあれど、楽しくはない! 退屈きわまりない!
でも「二次創作小説書くほどのオタクなら、同じようなオタクの子と仲良くなったらいいんじゃない?」と思うでしょう。
ですが、私と同じアニメを好きな子はクラスにいなかったんです(だからといって、新しくアニメを開拓して話題を合わせにいくようなこともしたくないという意地もあった)。同じオタクでも観てるものやハマってるものがちがうから話題が合わなかったのです。
ということで、「私の高校生活どうしてこうなった」と頭をかかえる日々に突入です。
ぼーっと授業を受けて、ぼーっとお弁当を食べてぼーっと帰る日々。
周りはキャッキャウフフと楽しそうに高校生活をばかみたいに満喫している中私は一人ぼっちで、彼らを死んだ魚の目というか腐った魚の目というか生気のないそんな目で眺める日々。
朝、学校に来てから、一度も声を発することなく帰宅する日もザラにあり、本当に退屈すぎて地獄でした。
しまいには、私は人間関係に見切りをつけました。自分から人との交流を断つようになったのです。
「どうせ一人なら、卒業まで誰とも行動をともにせずずっと一人でいてやるよ……!!」的な。
余談ですが、私はよく人から「すぐに意地を張る」と言われます。
そして、変な意地をはったまま、たまにクラスの誰かから声をかけてもらってもうわべだけの会話をして、本音で話さないまま、さみしいまま、時間だけがどんどん流れて、私は高校三年生になりました。進学するので、また受験生です。
私はうれしいような不安なような気持ちでした。
あと一年耐えれば、この不毛な毎日から解放される。そう思うとうれしいけど、大学が高校よりも退屈で嫌な場所だったらどうしよう…と不安に思っていたのです。
このころ、本当は文学部のある大学を目指したかったんですが、県内に文学部がある大学はなく(ど田舎なので…)、下に弟と妹がいて金銭的に余裕もないため、親からは県内の国公立か公立大学に行けと言われていました。
ので、私は大人しく従うほかなく県内で一番偏差値の高い国公立大の心理学部みたいなとこを志望校にせざるをえない感じでした。
かろうじて、興味のある分野を学べるのがそこの偏差値バカ高い国公立大学しかなかったんです。
が、キャッキャウフフとまっとうに青春謳歌できるようなゆるーいうちの学校から国公立大に受かる人なんてのは、毎年学年で数人いるかいないか(公立に受かる人は多少はいましたが、それでも少数派)。
私は、高校にはいってから授業なんかまともに聞いてなくて、テスト前に慌てて勉強して平均点くらいとって乗り切るみたいなことを繰り返していました。
もちろんそんな人間が模試で点数を取れるほど世間が甘いはずもなく、5月の模試も、6月の模試も、7月の模試も、夏休み明けの8月の模試も、志望校の国公立大学はずーっとE判定。
キャッキャウフフと青春をまっとうに謳歌していた周りの人間も志望校とのギャップは大きいようで、「やばいよね〜」みたいに笑って、友達同士で話題にしてる感じでした。
「なーんだ、やばいのは自分だけじゃないんだ〜、よかった〜」
私がそんなふうに安心したかといえば、そうではなくむしろ逆でした。
学力が私と同程度なのに(むしろ、私は皆より学力低かったかも…)、周りの人達にはそうやって笑い合える友人がいる。部活でつちかったものもある。高校時代の楽しい思い出も数えきれないくらいたくさんある。
でも、私には彼女らみたいに仲の良い友人もいない、進学に必要な学力さえもない、部活も一年で行かなくなってしまったからいっそ進学やめて就職しようにも面接でアピールできることがない、楽しい思い出だってほとんどない。
まあ、全部自分のせいだけど。
私は神経が摩耗していくのを感じ、なんだか勉強に対する意欲が失せてしまい、勉強することをやめてしまいました。
夏休みが明けたばかりのころです。
これ以上だらだら勉強したって、成績が上がるわけない。
だって、普通に考えて、私みたいに諦めが早くて嫌なことは続けられない性格の人間が、ストイックに勉強(やりたくないこと)に取り組めるわけがないから。
真面目に本気で勉強できないかぎり、成績があがるわけないのです。
もともと、志望校の偏差値が高すぎる。あと半年で、三年分のブランクを受験本番までにうめられるわけない。
そのことを察した瞬間、もうとにかく、勉強が嫌になりました。勉強なんかしたって意味がない、と。
教室で授業も聞くの嫌になって、保健室に入り浸るようになりました。
この頃には、もう何もかもどうでも良くなっていました。自分の人生なのに「あー、やばいねー、どうなっちゃうんだろうねー、私ー」みたいな感じ。
あっというまに保健室登校に。
保健室のソファーに座って、無生産で無為な時間を過ごしながら、私は、「自分は何てダメな人間なんだ。この3年間、つまらない学校生活でも必死に我慢してきたのになんの意味もなかったんだな」と静かに絶望する毎日でした。
保健室登校しはじめて、一週間ほどたったあたりから、先生が毎日かわるがわる保健室にやって来ては、『教室に来いよ』コールです。
一日に複数人の先生が来ることもありましたが、気持ちを休めることができなくなって、ますます私は追い込まれていくばかりでした。
そして当時の日記には「大人たちが心配しているのは、『将来の私(がどうなってしまうのか)』ということだけであって、『今の私(のメンタルがしんどいこととか、このまま勉強させたら心が壊れるんじゃないかとか)』のことは全く心配しちゃいないんだな」と、やさぐれたことが書いてありました。
親子で学校のカウンセラーとカウンセリングを受けたりしました。
カウンセラーのおじさんから、「なにか先生とかにこうしてほしい、とか要望があったら僕から伝えておくけど……」とか言われたので、「保健室に来ないでくださいって伝えてください」と面会拒否するほど。
それほどまでに私の心は摩耗していてとにかく勉強から逃げて休みたかったんです。
どうせ今から勉強頑張ったってあんなところに受かるわけがないし、そもそも勉強したくない。勉強する意味がわからない。
逃げたい。でも、漫画読んでてもすぐに勉強のことが頭をもたげて悲しくなる(皆は教室で一応授業受けて勉強がんばってるのに、自分はそれすらできなくなってしまったという悲しみ)。なにか、余計なことを何も考えず没頭できるようなことはないものか。
そう考えたとき、まっさきに思いついたのは「小説を書くこと」でした。
またまた注記しておくと私はこのころには、二次創作の小説は全く書いておらず、一次創作小説をバリバリ書いていました。
なぜ二次創作をやめたのかというと、単純に二次創作への熱量が年数を重ねるにつれ落ち着いてきたのもありますが、私は高校に入学したとき、少しでも精度の高い小説(←このときはまだ二次創作)を書けるようになれるんじゃないかと、技術を学ぶ目的で文芸部に入部していたのです。そこで何本か一次創作小説も書くうちに、一次創作を書くことの楽しさに目覚めていたのでした。
でも、その文芸部は私が欲していたような、技術を習得するとか切磋琢磨しあうような感じではなく、ゆるーい雰囲気だったので、「なんか、私が求めてた部活じゃない…!」と方向性の違いから一年で行かなくなりました。
そして当時はその気持ちを上手く言葉にすることができず、顧問に「辞めたい」と言うとき、理由は適当にそれらしいことをでっちあげて離れてしまいました…(本当にごめんね)。
部活にいかなくなってからは、「もっとちゃんと一次創作の小説を書いてみたい」とwordで、400字詰め原稿用紙に換算して630枚にもなるエンタメ小説を書き上げたこともありました(高2の四月に書き始めて、高3の三月に完成。当時、パソコン使えるのが1日1時間までという制約があったので丸一年かかった)。
そして、話を戻しますが、保健室登校まっただなかの高校三年の八月だか九月には、400枚ほどの分量のキャラ文芸を推敲しようとして放置している途中だったのです。
こんな保健室登校をしている状況でも、私は、小説を書きたいと思うって、私は小説を書くことがすごく好きなんだな。
改めてそう気づくと同時に、もう一つ、わたしには気づきを得たことがありました。
私が大学に行って本当に学びたいのは、最初から心理学じゃなくて、小説のことだったじゃないか。心理学は本当にやりたいことじゃなかった。「本気で行きたい」と思っていない大学を、なくなく進路に挙げていたから、受験勉強も今ひとつ手につかなくて、ずっと模試の判定も上がらなかったんだ。
そう気づきました(気づくの遅いよ!)
そして私は、自分がどうしても学びたいのは小説のことなのだと親を説得して、県外の「文芸学部」という小説を書く技術を学べる学部がある、私立大学を目指すことに決めました。
周りの皆とは違う「芸術系」という進路を選んだことで、なんだか妙に気が楽になったのを覚えています。
で、文芸学部を目指すことにしたわけですが、そうなると自然と気になってくるのが現時点での自分の実力です。ふと「中三のときより私の文章力は上がっているのかな」ということが俄然気になり始めました。
そして、「自分の実力を知るために文学賞に応募してみようかな」という気が起きてきたのです。
もう、公募勢に片足突っ込みかけています。
しかし、応募しようといっても、当時書いていたキャラ文芸は完成させるのに時間を要する状況だったので、早急に自分の今の実力を知りたい私は、何本か短い小説を書いて、短編やショートショートの賞、合わせて五つくらい色んな地方文学賞へと応募してみました。
作品を書きながら、保健室登校をしていた高校三年(八月末〜九月末)の生活はこんな感じです↓
【朝】母の車で三十分ほどかけて登校。車の中ではボカロの曲をガンガンかける。少し早めに学校に着いていたのでスマホに小説のアイデアを書き留めたメモを流し見ながら、保健室の前で保健医が保健室の鍵を開けに来るのを待つ。
【午前中】皆が教室で暑い思いして授業受けてる中、冷房の効いた保健室で小説の推敲をする(←こんなふうに書くと遊んでるみたいですが、けっこう真剣でした)。
家で印刷してきた小説に赤いボールペンで推敲していく(さすがにノートパソコンまで持ち込む勇気はない)。大変だったけど赤が増えるたびに、原稿の精度が上がっていく気がして嬉しかった。
推敲が行き詰まったり、推敲の気分じゃないときは、読書をしていました。
【昼】すかすかのリュック(原稿とアイデアノートと、筆箱と本しか入れてなかったと思う)を背負い、電車に乗って、まだ誰も帰っていない家に一人で帰る(昼休みになってから帰ると、こんな中途半端な時間に一人で下校する様子をたくさんの生徒に見られちゃいそうな気がして、四時間目の途中にはもう学校を出ていた)。
季節が夏で家に着くころには、全身汗だくなのでシャワーを浴びてから部屋着に着替えて、お母さんがつくったお弁当を食べながら、YouTubeで歌い手の動画を観る。
……とまあ、そんな毎日でした。こんなことしてる三年生、学校で私ぐらいだったと思います。夕方と夜はだらだら過ごしていました。
書き上げた原稿にミスや記入もれがないか何度も確認して封筒に入れ、原稿を郵便局に出しに行くとき、何だか今までやったことないことしてるぞ、という気がしてすごくワクワクしたのを覚えています。
さらに言うと、こうして公募に出す小説を書くことに没頭しているうちにメンタル面もかなり落ち着いてきていて、現代文の授業のときだけは教室に行けるほどに回復していました。
そして、応募した小説のことも「この公募がダメでも、別に落ち込む必要はないし、結果がどうであれ自分の実力を知るいい機会になるはず」と思えるくらいには前向きになれていたのです。
それで、肝心の結果が最終的にどうなったかというと、五つさまざまな公募に送ったうち、三本が落選、一本が四次選考通過(最終選考に残らず落選)、もう一本はめでたく入賞して短編集に収録していただきました。
入賞したことを知らせるハガキが届いたときは、12月の終わりごろでした。とても嬉しくて、私は自分の部屋で好きな音楽を大音量でかけながら踊りました。
そして、踊り疲れて床に倒れ伏し、肩で呼吸をしながら、なぜか猛烈に「小説家になりたい。ていうか、絶対なってやる」と思いが込み上げてきました。
文芸部にいたころも、「小説家とかになれたら楽しいだろうなー」とぼんやり思うことはありましたが、私はこのとき、生まれて初めて、心の底から、本気で、「小説家になりたい」と思ったのです。
小説家になるには、受賞してデビューさせてもらえる賞に応募しなくてはいけません(この時、応募したのは全て短編で、入賞してもデビューには直結しないものでした)。
そのため、私は当時書いていた原稿用紙換算で400枚のキャラ文芸小説は、受賞すればデビューさせてもらえる公募へと応募をしました。
夏がとっくに終わり、秋が過ぎてクリスマスもお正月も過ぎた冬でした。長編の小説を応募したのはそれが初めてでした。
そして、初めて、「内申点を上げるため」とか「自分の実力を知るため」じゃなくて、「受賞して小説家になるため」という気持ちで応募したのです。
それは、私にとって、すごく大きな一歩でした。
この作品が何次選考まで通るだろうかという、不安と期待の入り混じった気持ちでネットで作品を応募したのを覚えています。
また、これで落選しても、受賞して小説家になれるまで、こうやって公募へ作品を送り続けようという決意をしたのもそのころだったように思います。
ここから先は余談になりますが、400枚のキャラ文芸を送ったのはノベル大賞という公募です。運良く三次選考まで残していただきました(そして、四次選考で落選しました。自分が書いた小説の中で一番好きな作品ですが、今読み返してみると、「粗いな。よくこれで三次まで通してもらえたな」って感じです…(苦笑))。
そして肝心の大学受験ですが、第一志望の文芸学部は二回受けて二回とも落ちました!
でも第二志望(わりとマイナーな学部なので学部名は伏せますが、小説のことを学べます)に運良く、補欠合格しました笑
今回のこの記事を書いてみて、改めて気づいたんですが、小学生のときに絵を描く自信を失っていなかったら、私はあのまま絵を描きつづけていたと思います。小説を書く楽しさに気づくことも、小説家を目指すこともなかったでしょう。
なので、あの絵の上手い子に今となっては感謝すべきなのかもしれません。
それはそうと私はこういうエッセイめいた文章を書いたことがあまりないので、読みづらいところもたくさんあったかと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。この記事を書くのに約二週間かけた遅筆な私に「がんばったね」の労いの意味をこめて、スキとか押してくださると大変うれしいです。
最後になりますがツイッターにて「noteに何の記事を書こう?」とアンケートをとったとき、投票してくださった方々ありがとうございました。
「創作活動について」に次いで「自己紹介」も票数が多かったので最後にちらっと「自己紹介」も書いておきます。
次回の投稿は少し先になるかもしれませんが、次の記事も読んでくれたら嬉しいです。では。
〈自己紹介〉
『硝子ゆる(GARARU YURU)』
高校の頃は「弓波ゆる」という名前で公募に応募していました。
好きな食べ物は、サーモンのお寿司と肉、甘い洋菓子。苦手な食べ物は辛いもの、すっぱいもの、マヨネーズなど。あと、青春小説が好きで、そればっかり読みます。少女漫画も好きです。
プロセカの推しは、えむちゃんと天馬兄妹。好きな歌い手はAdoさん、超学生さんなど。
【フリーイラスト】ノーコピーライトガール(NCG)様
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