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循環するミソジニー ~石丸現象に思うこと

石丸氏の言葉に通底する”響き”
 東京都議選があり、現職の小池百合子氏が再選した。一方で世間の関心は彼女ではなく、2位の160万票を獲得した石丸氏に向けられているように私は感じる。
 私は都民でもないし、安芸高田市民でもないので彼の政策の是非にはまったくもって関心がない。ただ一貫して彼の言葉、に違和感を感じていた。そしてその違和感が、彼の支持者から発せられる言葉に共通するものだと思ったゆえ、ここに記しておく。
 1つ目はすぐにわかることだが承認欲求だ。これ自体はなんの問題もないと思う。誰もが抱える自然な欲求であるしそれを否定して悦に入りたいわけでもない。
 問題は、その「承認対象が、誰か」という点だ。私はずばりそれはホモソーシャルな空間でも成功と承認ではないかと感じている。

「出入りが許される女性」「排除される女性」ーミソジニーの現代的な様態

 突然だが、ミソジニーというと、「女嫌い」と解釈され私も含めて性的少数者がそうであるとみなされることはとても多い。が、ここでのミソジニーは、ケイト・マンの”ひれふせ、女たち”の定義に拠る。
 ここでは与える女性と与えられない女性が明確に区別され、前者は「いい女」(=コミュニティへの出入りを許可される)、後者は「悪い女」となる。
 突然だが、私がこれを書いているときにまっさきに頭に浮かぶのは羽柴秀吉だ。彼は、「女好き」として知られるが、私はミソジニー的だなと感じる。武家社会という男性優位な空間で、より上位の者の姫や妃を屈服させ、獲得することに強い喜びを見出す。淀殿こと茶々が彼の晩年の「戦利品」であったことなど非常にわかりやすいと感じる。
 同様のメンタリティを、石丸氏の言葉の端々に感じる。「切り合い」「刀を持つ覚悟」「女・子ども」「一夫多妻」彼が想定してる「世間」が、このようなものであることが伺える言葉選びだ。恐らくそういえば受けるという打算もあるだろうが半分以上は無意識だろう。
 違和感の正体を知りたくて彼の著作にあたったところ、予感は的中したと思った。彼は、京都大学ーメガバンクという輝かしいエリートコースを歩んでいるにも関わらず、それにあまり誇りを持っているようではない。むしろ自信のなさすら感じる。京都大学経済学部が極めてホモソーシャルな空間であることは、卒業生の男性たちが”楽しそうに”当時を振り返るさまを見れば、論を待たないだろう。
 だとすれば、彼のこういった発言の言葉尻を「時代錯誤」「差別」と断じ糾弾するのはあまり有効な批判ではないだろう。問題は彼の言葉が、多くの同世代から下の男女に”刺さって”、新しいコミュニティが形成されつつあることだ。
 彼の支持者の発言はとても熱心だ。彼がヒーローだ。小さいことは目をつむって応援してやるべきと熱心に説く。なぜか。彼に自分を重ねる部分があるからだろう。
 地方より上京し、仕事についた。そこそこの収入を得、場合によっては知的産業にも従事している。団塊の世代のような「輝かしい武勇伝」を行う勇気はない。家には自己啓発本や起業セミナーのチラシがある。こんな支持者、多いのではないだろうか。これは実質賃金が上がり続けないことだけがもはや原因ではないだろう。恐らく、彼らは、学歴も経歴も大企業もマスコミも何もかも信じれなくなっている。そんなときに居眠してるけしからん議員を爽やかな好青年が立ち向かって一刀両断にする。こんな場面を見れば私も支持しただろうと思う。
 石丸氏は自覚的か無自覚的かわからないが、「漫画がすき」といっている。多くの「少年漫画」において「女子」は戦利品として描かれる。
 ホモソーシャルなコミュニティにおいてコミュニティへの出入りを許可されない女性とは、はっきりいえば、蓮舫氏だ。それ、そのものといっていいのではないか。大きな声で男性の欠点をあげつらう、責め立てる。蓮舫氏が苦戦した政策的理由についてはなんの関心もないのだが、なんとなく蓮舫が嫌、という人の多くが、この「既存の男性優位なコミュニティ秩序を破壊しかねない存在」への言いしれぬ嫌悪感=自己否定をされかねない恐怖だったのではないだろうか。一方で、”柔和”で”物腰が柔らかい”ように見える小池氏は恐らくそれほど彼らの嫌悪の対象にならないのではないだろうか。その点、小池氏は老練だと改めて思う。

分断されるリベラルー興味深い現象 
 私は仕事後、リベラル系youtubeを見るのが日課だが、非常に面白いコントラストがあるとリベラル陣営について感じる。望月衣塑子氏要するArc Times は一貫して石丸氏に否定的だ。一方で、佐藤章氏、本間龍氏などを抱える一月万冊は、石丸氏に好意的だ。もちろん、利益をどれだけ重視するか、というスタンスもあるし、それ自体を責める気もない。だが、根底には、このミソジニーをどう思うか、という問題が潜んでいると思う。
 両者ともに、小池氏には手厳しい。特に一月万冊の論者たちの論調たるや、小池氏の容姿をあげつらう、「女王様」「踏みつける」など、もはや小池氏であれば何をいってもいい状態になっている。そこには、自分たちでも自覚できていない言いしれぬ「強い女性」への憎悪がないとはとうてい思われない。一方、望月氏も一貫して手厳しいが、どこか小池氏に「敬意」すら感じる場面がある。嫌いだ、嫌いだ、いいつつも。
 このご時世にまともなじゃンダー的な感性を持っていれば中年男性数名が、よってたかって連日連夜一人の女性を毎日攻撃している図が異様に見られる、というのはわかるはずだ。視聴回数のために、というエクスキューズではあの言い様は説明できないと感じる。特にメンバー唯一の女性である安冨歩氏がそこに気づいていないはずもない。が、それを「したい」という欲求が”共有”されている空間であると白日のもとに晒している。それによっておそらくは絆を確かめ合い、そこにおいてこそ、「承認」が得られるのだろう。まさに、そんな人々にとって、石丸氏は「若くて」「応援したくなる」存在だというのは非常に理解がたやすい。田舎から出てがんばってる好青年、胸に大志を秘め、悪徳役人を懲らしめていく。拍手喝采が起きるのはよくわかる。
 小池氏は表面上、とても柔和だ。少なくとも表立って男性優位なコミュニティを破壊するような言動はしない、一方で支持層である主婦層に受ける振る舞いも熟知している。そのような小池氏ですら、これであれば、”カミツキガメ”である蓮舫氏が、男性優位コミュニティで”内心どう思われていたか”容易に想像がつくだろう。
 マルキシズム、アナキズム問わず、社会主義者たちのコミュニティが非常にホモソーシャルであったことはよく知られている。私の世代であれば学生時代「革マル」に入ってしまった女性が「肉便器」と呼ばれている光景を見ているだろう。政治的右左は、ミソジニーとほとんど関係しない。なんで日頃左翼的なことをいってる人がと、知り合いの主婦が言っていたが、むしろ、昔の社会主義者たちのふるまいへの反省のあるなしでいえば、右の人のほうがあるのではないかと正直思う。少なくとも批判的に見ることができていたのだから。
 石丸現象はこれから先、収束せず拡大するだろう。巨大な人間の弱みである「認められたい」「異質な他者=うるさい女、与えない女を排斥したい」という欲求に触れるからだ。そしてその先で、石丸氏は同じように「満たされない何か」を抱え続けてしまうだろう。おそらく、誰かしら、計算高くあくどい人間が、彼を政治の世界へ引きずり込み、誘導した。支持者が言うように、彼は漫画を「まっすぐに」とらえる素直な青年だ。担がれてしまうほどの愚か者でもないが、そこから飛び出る勇気もない、誰かを傷つけたくはない。だからこそ、自分の満たされない何かを彼の目の前にあった男性優位的コミュニティで満たそうとし続ける。余計なお世話とは思うが彼個人については、とても哀しく思う。
彼を担いでしまってる大勢の人々ーその中には佐藤章氏のような一見左翼的な者も含まれるーも何か悪意があって彼を支援しているわけではない。田舎から出てきた好青年、輝かしい経歴を持ちながらどこか自信なさげな彼に、かつての自分を重ね合わせ、心より支持をしているのだろう。私が、彼らの立場であれば熱心に支持したと思う。彼らの多くも、よもや、女性をコミュニティから排除したいとか、そういった心が自分にあるとは思いもしないのではないか。むしろ多くは女性に理解がある、なんならフェミニストだ、くらいに思っているのではないだろうか。だが、多くは女性は安心感や気遣いを与える存在であり、与えない女(まさに蓮舫氏そのもの)を”疎ましく””言及したくない”存在として捉えているのではないだろうか。(だから、望月さん、あなたも危ないですよ!)
 石丸氏ははからずも、日頃、コミュニティ内でのセクシュアリティをどうとらえているかをあぶり出すリトマス紙のようになっている。対抗馬二人の女性たちもそれぞれ男性優位なコミュニティでの女性の振る舞いを象徴的に示す非常に興味深い存在だった。小池氏がその点優位で、敵を作らなかっただけ、そのように私は思っている。
 そしてこれからの政治的争点の一つはこのセクシュアリティをめぐるものになるだろう。男性優位なコミュニティを守るか、すこし譲って与える女のみを許すか、あるいは、与えない女を人と見なすか。そこではほんとうの意味で既存の右左対決は意味はなさないだろう。防衛感も、改憲護憲かも、あるいは、人権感も。その先多くの”蓮舫氏”が生まれるだろう。

 そうであるがゆえに、この世界を余計に哀しく思う。
 
 

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