One eyed dragon〈伊達 政宗①〉
1.伊達 政宗とは
初代仙台藩主として江戸時代に現在の仙台市の礎を築き上げた人物であり、三日月のような装飾の兜と、右目に眼帯を付けた特徴的な外見が広く知られた人物です。
破天荒かつ、野心溢れる人物というイメージもあり、戦国時代を題材としたサブカルチャーにおいて石田 三成、真田 幸村と並んで高い人気を誇っており、特に『戦国BASARA』に登場する伊達 政宗は多くの人々に凄まじいインパクトを与えました。Here we go!! Let's party!!
後世においても、宮城県を代表する人物として広く知られている彼。そんな彼について、今回は紹介していこうと思います。
2.前半生
生まれるのが十年早ければ、あるいは天下を獲れたかもしれないーー
永禄10年(1567年)、出羽国(現在の山形県)の米沢城で、伊達 輝宗の長男として誕生。幼名は梵天丸、彼の母親である義姫は、出羽の大名・最上 義光の妹であり、伊達家と最上家は親戚関係にありました。
幼い頃は引っ込み思案な性格だったらしく、彼の姿を見た家臣達は、彼が後継者であることに不安を覚えたとされています。母・義姫も、後に生まれた弟・小次郎を溺愛しており、長男である梵天丸に対してはあまり深い愛情を注いでいませんでした。
更には、当時の流行り病であった天然痘に罹ったことで右目を失明。家臣からの不信感も強まり、どこか孤独を感じる幼少時代を過ごしていました。
それでも、父・輝宗だけは彼に深い愛情を注いでおり、梵天丸の師に高僧・虎哉宗乙(こさい そういつ)をあて、梵天丸を立派な将にしようと尽力していました。
伊達政宗の誕生
虎哉宗乙ーー彼は岐秀 元伯(ぎしゅう げんぱく)、快川 紹喜(かいせん じょうき)といった有名な高僧に師事した彼は、梵天丸に対して数々の教えをもたらしました。
『苦しい時にこそ笑え』『人前で横になって寝てはならぬ』ーー
現代において『へそ曲がり』『強情』と呼ばれるほどの教えを説いた他、唐の名将『李克用』が隻眼で皇帝まで上り詰め、『独眼竜』という異名を誇ったと説いたり、と、梵天丸が自信をつくように尽力しました。
そうして梵天丸は『伊達者』としての片鱗を見せながら成長していくことになります。そんな彼の成長を、宗乙は生涯を終えるその瞬間まで見守っていくことになります。
なお、この時に後に無二の腹心となる片倉 景綱(片倉 小十郎、以降小十郎)とも出会ったとされています。
天正5年(1577年)、元服。伊達 藤次郎 政宗と名を改めました。
その名前は伊達家9代目当主、伊達 大膳太夫 政宗を由来としており、伊達家は代々足利将軍家にあやかって、時の将軍家の名前から一字使うことが通例となっていましたが、当時の将軍である足利 義昭は、織田 信長によって京から追放。その影響力も信長に取って変えられており、父・輝宗は当時の状況を鑑みた上で政宗という名前を与えたと考えられています。
天正7年(1579年)、田村 清顕(たむら きよあき)の娘である愛姫(めごひめ)を正室に迎えました。
天正9年(1581年)には父・輝宗、腹心の小十郎と共に、相馬 盛胤(そうま もりたね)との領土争いに参戦、これが政宗にとっての初陣となりました。
戦いのさなかで目覚めた政宗の姿を見て輝宗は安心したのか、天正12年(1584年)に、政宗に伊達家の当主の座を譲り、まだ40代にも関わらず隠居を宣言しました。
早速、妻・愛姫の実家である田村家と敵対関係にある大内 定綱に対して宣戦布告。大内が治めている小手森城に侵攻し、城の中にいた大勢の人間を撫で斬りーー鏖殺するという行動に打って出ました。
当主になってすぐにやることが鏖殺とかゲスい悪役の所業じゃねぇか。
この仕打ちを恐れた大内は、近隣の大名である蘆名氏の領地に逃亡。大内の同盟相手である二本松 義継は政宗に和睦交渉を持ちかけました。しかし、政宗はこれを許さず、二本松が治めている領地を全て伊達家のものにしようとしました。
怒った二本松は、交渉の仲介に立ってほしいという名目で父・輝宗を呼び出し、そのまま拉致してしまいます。この時、鷹狩りに出ていた政宗は怒りのままに鉄砲を持ち出して出陣。父を人質に取っている二本松を目の当たりにした政宗は、二本松を父ごと撃ち殺してしまいました。
父と共に敵を撃ち殺したこの事件については様々な説が語られており、政宗が父を殺す口実として仕組んだ謀略であったりーーあるいは輝宗が自身に危機が及んだ際に、父よりも敵を優先するように教えていたなどという説まであります。
人取橋の戦い
二本松を殺害した政宗は、その後父を殺された報復という名目で彼が支配していた二本松城に侵攻。これに対して危機感を抱いた近隣の大名家。蘆名氏、佐竹氏が連合。政宗はこれを迎え撃つことを決意。小十郎の反対を押し切って、両者は人取橋で向き合うことになりました。
政宗は七千の兵力で出陣、対する連合軍は三万の軍勢で侵攻。更に、佐竹氏の当主である佐竹 義重は『鬼佐竹』の異名を持つ百戦錬磨の猛将。義重の武勇と連合軍の圧倒的な兵力を前に伊達軍は一方的な敗北を喫し、政宗も敵兵に囲まれて負傷することとなりました。
この時、小十郎が政宗のふりをして囮を務め、主君を逃がしました。更には祖父の代から伊達家に仕える宿将・鬼庭 左月斎(おににわ さげつさい)の命を投げ打ったしんがりによって前線の城である本宮城へと撤退。九死に一生を得る結果となりました。
連合軍は、撤退した政宗を追撃することはありませんでした。佐竹氏の方で内紛があったこと、佐竹と敵対していた北条氏が侵略行為を行っていたことが理由とされており、伊達家の今後を左右しかねない危機は奇跡的に回避することができました。
摺上原の戦い
この頃、日本の中心では大きな動きが起きていました。本能寺で横死した織田 信長の実質的な後継者となった羽柴 秀吉が天下の大半を手中に収め、全ての大名に対して『惣無事令』を発布。私的な理由による抗争を禁じました。
が、政宗はそんなことなど知らないかのように、佐竹氏との戦いに備えるため、自身の領地の北方に勢力を構える大崎氏に対し宣戦布告を行いました。コイツ無敵か
しかし、そう上手くはいきませんでした。政宗とは親戚関係にあるはずの最上 義光が政宗に対して不信感を抱き、大崎氏に支援する形で横やりを入れてきました。しかし、母・義姫が介入することで最上とは和睦。その流れで大崎氏とも和睦する形となりました。
天正17年(1589年)、蘆名氏の当主が亡くなったことに伴い、内乱が発生。これに乗じる形で政宗は侵攻を開始しました。しかし、蘆名氏のこととなると黙っていられないのは佐竹氏も同じであり、佐竹 義重は自身の次男である義広を蘆名氏の養子にしました。
当主を失っていた蘆名氏はこの時、先代と伊達家の取り決めによって、政宗の弟である小次郎を当主として迎えようという案がありましたが、義広が来たことによって当主の問題が解決。新たな当主と、佐竹家の後ろ盾を同時に得られた状態で政宗と対抗しました。
政宗の侵攻に、小勢力は次々と恐れをなして伊達家に降伏。片倉小十郎を筆頭とした家臣団と共に攻め込んでくる伊達軍を蘆名軍は摺上原(すりあげはら)で迎え撃ちますがーー
伊達軍二万三千に対して、蘆名軍は一万六千の兵力。全く歯が立たず、あえなく壊走することになりました。蘆名 義広は摺上原の戦い以後も政宗に抵抗を続けましたが、敗北を重ねていく内に領地を失い、後に父である佐竹 義重の元へと帰還しています。
伊達家の勢力はこの時、現在の宮城県、山形県南部、福島県北部までの広範囲に及んでおり、東北最大の勢力となっていました。
3.秀吉と政宗
『惣無事令』
しかし、これを面白く思わない人物がいました。
関白まで上り詰め、姓を改めた立身出世の男、豊臣 秀吉です。
彼が発布した私的な抗争を禁じる惣無事令の対象は、日本にいる全ての大名です。これには当然政宗率いる伊達氏も入っていますが、政宗は当然これを完全に無視しています。
タイミングの悪いことに、天正17年(1589年)、北条氏が信濃国の大名、真田氏の領土に侵攻。惣無事令に従わず私的な抗争をした北条氏に対して秀吉は、制裁の意味を込め、北条征伐を宣言しました。
この北条征伐の宣言に、伊達家中は大いに揺れることになります。
今まで何も言われていませんでしたが、政宗も北条氏と同じく私的な理由で侵略行為を繰り返してきたためです。
天正18年(1590年)、秀吉の呼びかけに徳川、毛利、真田、上杉といった有力大名が次々と北条氏のいる小田原(現在の神奈川県小田原市)に集っていきます。秀吉は政宗に対して北条征伐に来るように呼び掛けていましたが、多くの大名家は予測が出来ない伊達家の動向に関心を向けることになります。
『軍勢を率いて来なければ、北条と同じ目に遭うだろう』
『たとえ来たとしても、既に惣無事令に反した行動をしているので来て即刻首を刎ねられるだろう』
様々な憶測が飛び交う豊臣陣営。その中で政宗は、人生で最も悲惨な事件に遭遇します。
母と弟、白装束
伊達家中では、先代の輝宗が北条氏と同盟を結んでいたというよしみがあったため、北条に尽くすべきだという意見とーー豊臣に従属し、伊達氏の将来を安泰とするべきだとする意見に割れていました。
しかし、家中が割れてしまう状況が起きたことで、政宗には当主としての器量が無いと思う人物が現れることになりました。
それが政宗の母、義姫です。
息子が自分の兄と戦うと知った際には、その身を以て息子を守った彼女ですが、義姫は政宗よりも、次男である小次郎を溺愛しており、これを機に伊達家当主の座を小次郎に譲るために政宗を失脚させようと画策。
しかし、政宗は強情で当主の座を譲るなどしないであろうことを義姫は知っていました。それ故に、息子を毒殺するという、母親として最悪な計画を企てることになりました。そして、このことを聞いた小次郎も、計画に乗ってしまいます。
しかし、計画は上手くいかず、政宗は当主の暗殺を企て、その地位を脅かした罪で小次郎を処刑しました。義姫を咎めなかったのは、母への愛ゆえか、はたまた隣国である最上との関係性を考慮した結果でしょうかーー。
いずれにせよ、父に続き弟まで手にかけた政宗は、その覚悟を胸に抱え、世情を顧みて豊臣方として参戦する意向を明らかにしました。
秀吉陣営に参じた政宗は、白装束、即ち死に装束で秀吉の前に現れました。
死の覚悟を前面に押し出したーーしかし政宗の破天荒な一面を覗かせるようなこの行動は秀吉の心を強く掴んだようで、
『今少し遅くば、その首飛んでいたであろう』
と笑って許したとされています。
北条征伐が終わった後、天正19年(1591年)では元々伊達氏に服従していた葛西 晴信、大崎 義隆による葛西大崎一揆が発生。この時は蒲生氏郷と共に一揆を鎮圧しましたが、一揆を扇動した疑いで政宗は秀吉からいくつかの所領を取り上げられています。
なお、この時も白装束で秀吉の前に立っており、更には金の十字架を背中の部分に張り付けるというあまりにもパンク過ぎる出で立ちで登場。一揆を扇動する旨の書状を突き出されても、自身は関係無いと言い張ってどうにかしたそうです。
もう何なのこの人。
秀吉晩年期の立ち回り
文禄2年(1593年)、秀吉は朝鮮出兵を計画。政宗もこれに従い、数千人の兵を率いて京都に赴きましたがーー絢爛な出で立ちの軍勢に、京都の人々は息を呑んだと言われております。
前田 慶次を代表とする傾奇者が世に出始めていたこともあり、黒塗りの強い存在感を示す政宗の軍勢はより鮮烈に人々の目に映ったことでしょう。
政宗は文化人として、千 利休や古田 織部といった文化人との交流を深めており、この時に細川 忠興や浅野 長政といった大名家とも関係を深めたとされています。この大名家の中には、後に江戸幕府を開く徳川 家康もいました。
歌人、詩人としての才能も確かなものでありーー
『ささずとも 誰かは越えん 逢坂の 関の戸埋む 夜半の白雪』
という歌を秀吉に披露しており、この歌の存在によって、政宗は後水尾天皇によって『集外三十六歌仙』の一人に数えられています。この集外三十六歌仙は武田 信玄、毛利 元就といった有名武将も存在しておりーー
後世においては、司馬 遼太郎が「政治家としての側面にはその詩心が反映されていないながらも、その詩才は非常に優秀で古代中国の曹操に通ずる」と言われました。
朝鮮出兵の直前には豊臣 秀次が切腹の憂き目にあい、政宗の叔父である最上 義光はそのあおりを受けてしまい、秀次の側室であった愛娘を失っております。
政宗も秀次自身と大変親しくしており、普段の行いから政宗にも疑惑の目が向けられます。これに関しては諸説あるものの、家康が仲介に立ち、更には有事の際には後継者を立てておくようにあらかじめ家臣団に言い渡した上で秀吉に全てを包み隠さずに話したことで許されたと言われています。
一方で、秀吉の朝鮮出兵には文禄の役には形式上参戦しましたが、その労力は主に国内の維持に努めました。慶長の役にはそもそも不参加。それはまるで、もうすぐ天下に大きな転換が起きることを予測していたかのようでした。
ーー慶長3年(1598年)、豊臣 秀吉、死去。
転換点が、政宗の元に訪れることになりました。
〈続く〉
4.おまけ
日本三景に数えられる松島町には、宮城県出身の偉人と共に、伊達 政宗の生涯について語られている伊達政宗歴史館があります。
館内には政宗の騎馬姿を模した蝋人形が存在しております他、大河ドラマ『独眼竜政宗』に関するグッズやお土産販売店が存在しています。
松島の観光と共に、ぜひチェックして見てください。
ここまでご高覧いただき、ありがとうございました。