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『ワンダー 君は太陽』の太陽の意味とは?「世界の中心である太陽」と「照らす太陽」

この種の映画って、少し苦手だったりする。
ともすれば正論やキレイゴトの押しつけをされているような印象を受けてしまうからだ。

「諦めなければうまくいく!」
「みんな前を向こう!そうすれば未来が見えてくる!」
「人生は素晴らしい!」

自分がシニカルな視点をもっているが故に、「そりゃキレイゴトはそうなんだけどね…」と冷めた感想を抱いてしまうことがある。

『ワンダー 君は太陽』もいじめっ子と仲良くなったり最後のシーンなんかは若干その気があったのだけど、他の部分はとても良かったと思う。

何が良かったかって、十歳の少年オギー(遺伝子疾患で顔が崩れている)の周りの人たちが様々な葛藤を抱えているところ。
母はオギーのために自分のキャリアを諦めていたし、
姉はいつも父母がオギー中心なので自分のことを見てくれないことに対し寂しさを感じているし、
オギーの親友ジャックは、クラスメイトにいい顔をするために「仲良くしているのは校長に頼まれたからだよHaha」なんて言ってしまい、オギーが口をきいてくれなくなってしまう。

もちろん1番つらいのは自分の力では顔をどうすることもできないオギーなのだけど、彼の周りの人たちもつらいのだ。

「オギー!君は太陽だ!バンザイ!」と言ってられないときはある。

※近くに座っていた女性が最後のシーンでグスングスン言っていたが、私は姉ちゃんが表舞台に立ったシーンが泣けた

原題は『wonder』なのだけど、邦題は『ワンダー 君は太陽』だ。
この邦題の「君は太陽」に関しては、劇中で明言されてることと、されていないことの2つの意味があるように思う。

1つめは、劇中で姉ヴィア目線で語られるように「オギーを中心に世界が回っている」ということだ。
障害を持って生まれたオギーのケアのために、両親は彼にかかりっきりになる。
「弟が欲しい!」と言っていたヴィアはそれを受け入れ、彼女もまたオギーを中心に生活をするようになる。
オギー一家は明るい。オギーが明るいし、家族がそれを心底楽しんでいるからだ。
一方でオギーのために、母はキャリアを諦めたり、姉は寂しさを抱えていたりする。
良くも悪くも、オギーという太陽を中心に世界は回っているということである。

もう1つ、周りの人を明るくするということもあるが、オギーは周りの人を「照らす」存在だということだ。
「照らす」ということはつまり、「素晴らしい部分」「強い部分、あるいは「醜い部分」「弱い部分」が明るみに出てしまうということだ。

オギーの親友ジャックやサマーは、彼を顔で見ず、彼の内面を見て友達になった。
一方でいじめっ子のジュリアンは、彼を顔でしか見ず、彼を執拗にいじめた。

オギーと関わりを持つということは、試されるということでもある。
彼がいなかったら、なんとなく気が合う人と遊んで、なんとなく好き嫌いを感じていたであろうが、
オギーの存在によって「友情ってなんだ?」「普通の人と顔が違うってどういうことだ?」と考えざるを得ない。
そして、その人の本質が表出してくる。

そしてオギーは観客も「照らす」のだと思う。

「あなたはこの映画を観て何を考えましたか?」

最後に、私が「違い」について、1番しっくり来ている一節を紹介したい。
日本とイタリアを行き来する漫画家ヤマザキマリさんのエッセイの一節である。

”私は男女平等というのは基本ないと思っています。
ただ「人間」という平等があるだけ。
性別が何かということは、実はどうでもいいことです。
ジェンダーを取り払って、「人間」なんだからということから私は考えます”
-『とらわれない生き方 悩める日本女性のための人生指南書』より-


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