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#17 日本サッカーの父。デットマール・クラマーその1

こんばんは。今日もお疲れ様です!
昨日は初めてnoteをサボっちゃいました。
年明け早々体調不良でした。初蹴りも参加出来ず、、、
ハーブティにレモンを搾り、ビタミンたくさん摂取して復活の最中です。

今日は今ゆっくり読んでる本「デットマール・クラマー。日本サッカー改革論」について。
18章ある内の6章まで読みましたので感想文を書いていこうかと思います。

みなさんはデットマール・クラマーさんを知っていますか?恥ずかしいことに僕は知りませんでした。名前は聞いたことはあったんですけど、どんな人なのか、何をした人なのか。は知らないままでした。
本書序盤ではクラマーさんの生い立ちから日本に来るまでからどのようにして日本サッカーと関わりを持ったかが書かれていました。
話は1960年まで戻ります。当時の日本はとにかく弱かったそうです。1964年に東京オリンピックが控えており、開催国としてこのままではいけない。となり外国人コーチを招く案が出ました。どの国から招こうか?サッカーの母国イングランドのコーチを知っているぞ!南米のブラジルはどうだ?当時強かったソ連は?様々な案が出た中、当時の会長であった野津会長は既に心の中で決めていたそうで「ドイツだ。ドイツしかない。」
なぜなのか?
野津が育った広島は、ドイツサッカーと縁があった。第一次世界大戦のころ広島湾の似島にドイツ兵捕虜収容所があった。ドイツ兵捕虜の楽しみの一つとしてサッカーの時間があった。彼らのサッカーは素晴らしく、その姿をみていた。
 こうして野津会長の元西ドイツサッカー協会へ協力の要請の手紙を書いた。西ドイツサッカー協会はすぐに反応し全面協力することを約束してくれた。そして日本の担当となったのがデットマール・クラマーさんだったのです。
他にも様々な人が尽力した記録がありました。日本人、ドイツ人が日本サッカーのために必死で戦った記録です。当時は貧乏協会だった日本サッカー協会や今よりも悲惨なサッカーの環境。それらを乗り越え徐々に進化していきました。その導き手となったのがクラマーさん。
そんなクラマーさんの話がたくさん出てくるのですが今現在の指導現場にも通ずる話や指導者として参考になる話がたくさんでてきました。
個人的に心に残った話を2つだけ紹介したいと思います。

・「彼の欠点は戦争体験がないことだ」
著者中条さんがインタビューの際に、クラマーさんから「タジマはどうしているのかね。」と日本サッカー協会現会長である田嶋幸三の名前が出てきた。中条さんは「彼は、今、協会の事務方のトップで専務理事、そして日本オリンピック委員会の委員もしています。将来は協会会長になろうという人物です。」と答えました。
クラマーさんは、「ウーン、それは惜しい。なぜ現場の指導をしないのか。彼は非常に有能なコーチだ、日本代表監督になってもおかしくない。サッカーをよく勉強してるし、外国語も上手だ。しかし、ただ一つだけ足りないものがある。」そして一呼吸おいて「それは戦争体験がないことだ」クラマーさんは戦争を嫌っている。戦争で弟を亡くし、3ヶ月ぶっ通しで尋問を受けた経験もある。勘違いしてはいけないのはクラマーさんは戦争賛成というわけではないです。しかし彼は戦争体験がないことを欠点のように語ったそうです。クラマーさんは戦争の話とサッカーの話に例えた。クラマーさんは落下傘兵だった。落下傘兵とはパラシュート使って直接敵地に降りる兵士達のことです。そして19歳で隊長になった。
「落下傘兵の隊長は後ろから命令するのではなく、先陣切って飛び出さなければならない。そうしないと部下がついてきてくれない。サッカーでもコーチが最初に飛び降りる覚悟であるべきだ。」
「クレタ島では敵戦車を撃破したことがある。事前に共同作戦をじっくり練り、各自の役割を決めて打ち合わせた。まるで、サッカーでゴールを狙う作戦のように。」
「見かけだけの優等生のような、いつもハイハイという柔順な、いわゆる良い子タイプの兵士は、実戦になると、からしき頼りにならない。逆に、平生悪ぶっている不良少年タイプの兵士はポジティブで、いざという時に異常な力を発揮し、役に立つ活躍をした。ここらもサッカーと同じだ。悪ぶる方が案外役に立つものなのだ。見かけだけで人を判断してはならない。」
このように隊長になった時の経験や捕虜になった時の経験が人間性を高めた。いや高めざるを得なかったという。僕はクラマーさんが1960年という今程便利でない世の中で日本に単身で訪れ、コーチをしていることに驚いた。それはこんな捕虜経験や戦争経験に比べると苦労でもなかったのだろう。
著者中条さんの考え方をお借りすると、生死をかけて人生を厳しく生きるような覚悟が監督には必要だ。とクラマーさんは言いたかったのかもしれません。

・ドイツ方式などない
クラマーさんが当時の協会役員の方々と話している際にずっと気になる言葉が出てあったそうです。それは「日本選手にドイツ方式は向かない。」という批判でした。僕も知り合いからこんな話を聞いたことがありました。「ドイツ人は背がでかいから日本人とはぜんぜん違くない?」「やっぱ体格が似ているスペインのが合ってる。」
クラマーさんは「サッカーの指導法には、ドイツ方式とか何々方式とか、そういうものはない。選手にはそれぞれ特徴、個性がある。それは国籍とか民族とは関係ない。いつもやっているからと画一的なトレーニング方式を押し付けていいはずがない。私は日本選手個々をよく観察し、彼らに合ったトレーニングを工夫しながらやった。ドイツ方式なんてものは、もともとない。」
この言葉は今の育成現場にも言えることだと思います。国単位でみてもドイツ式、日本式、ブラジル式、フランス式と考える人がいるかもしれません。性格の面でもよく日本人っぽさ、日本人の特性はという話を聞きますが全ての日本人がそれに当てはまるわけではないと思うのです。最近だと鎌田大地や堂安律。彼らはよく言われる日本人っぽさがあんまりない気がするんです。サッカー技術でも感じます。パスが苦手だけどドリブルが上手い選手。ドリブルやシュートが苦手だけどディフェンスが上手い選手。足でボールを扱うのが苦手だけどめちゃくちゃ走れる選手。走るのが苦手だけどキーパーが上手い選手。性格も技術もそれぞれ個性があります。そこに国や地域は関係ありません。彼らの個性を見抜きどんなところが長所なのか。それを伸ばすためにどんなトレーニングをしようか?どんなチームを作ろうか?それらを考えることは指導者として欠かせないことだと感じます。

まだまだ読めれてなくて途中です。
しかし西ドイツサッカー協会は日本にたくさんのことを教えてくれました。当時の日本サッカー協会の人間も必死に動きました。僕は歴史を知ることの大切さを感じました。ちょっと前までは僕は「日本サッカー協会はこれがダメダメ!日本サッカーはこれがダメ!あれがダメ!」と文句を言うことが多かったです。しかし今ある日本サッカーは先人達の努力により進化したものでした。先人達にリスペクトし、どうしけばよりよくなるのかを考え議論することが大切ですね。そしてドイツサッカーは日本サッカーを導いてくれた師匠、父親のような存在でした。最近JFAのヨーロッパ拠点をドイツに立てたそうです。多くの日本人選手がドイツリーグに渡って活躍をしています。これからもドイツと日本の関わりは続いていくでしょう。先日行われたW杯グループリーグ初戦ドイツvs日本は師弟対決のような関係だったのですね。これらの歴史を知った上で見たかったなぁと感じます。

ドイツ師匠、これからも日本をよろしくお願いします🇩🇪🇯🇵

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