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「多様性」について考えさせられる本📚

朝井リョウさんの「正欲」
友達から貸してもらって久しぶりに小説を読み多様性について
とても考えさせられたのでNOTEを書きます📝

社会的に「多様性」の必要性の声を大きく叫ばれる流れ。
会社でもダイバーシティ推進の文脈で
女性の管理職比率を増やす・障がい者雇用の割合を増やすや
文化としてLGBTQの方たちの存在をもっと受け入れていこう等
積極的に多様な人を理解し、
組織に受け入れて活かしていく流れが進んでいる。

「この本は『多様性』って言うけど一体ではどこまで受け入れられるの?」

そんな問いをくれる本でした。

是非、関心がある方は読んで欲しいので
あまりネタばれしないように書きますがかいつまんで・・

「水に性欲を感じる人がいる」この事実を受け入れられるのか。

性的志向の対象が人間を超えて水である。

マイノリティの感性を持ち合わせて生まれた本人と
多様性との言葉を使いながらもそんな人間がいるとも知らない世間の
マジョリティがどのように向き合うのかどうか。

が、様々なバックグランドの登場人物によって描かれる物語り。

<感想📝>
感じてはいけない感情なんてない。
だけど、人に迷惑をかけないために社会としての
規律を守るために守るべき秩序はある。
むしろ秩序からはみ出さない行動規範があるからこそ
自由な思想や感情が許容される。

このバランスを上手にとって
「多様性」との文化は浸透し、
仕組みに落とされるべきものなのかもしれない。と感じました。

人は理解できない感情や行動に対して「気持ち悪さ」を抱く。
まともであるとの「普通」の殻を武器に人を容赦なく非難する。
SNSのつぶやきなんて見ていると顕著だろう。

一方で多様な人をもっと受け入れようね。の言葉には
全員が賛同する。
「自分がまともの文脈で理解できる多様な人は受け入れます。」の
賛同をしているのに、
あたかも自分が理解できない人まで
受け入れるとの自信をもっているように賛同する。

多様性は本来はストレスなのだ。
理解し合えない対象と理解し合い、
理解し合えないものを新たに組織に交えて
これまでの意志決定や思想や習慣が揺らがされる
「心地が悪い」その体験を自ら取りに行く。
その覚悟はどれだけあるだろうか。

マイノリティの人に配慮しましょうね。は
マジョリティの人が上から何か物を申している現状に過ぎず
本来の多様性とは対話的でこの理解し合えないとの
ストレスを引き受けてこと価値に変わるのだと思う。

嘘をつくのはやめよう。
理解し合えないことは理解できないと主張し、
適切にぶつかろう、話し合おう。そして分かり合おう。

そんな「繋がり」が広がることだけが真の意味での多様性なのだと思う。

そうでないならば人間を「普通」「普通でない」に
分類し種別に分け交わりのないように
心地よい生活圏を区切った方がいいに決まっているのだから。

もっと分かり合うことに貪欲な対話的な「繋がり」が広がりますように。
そして、真の意味で人の気持ちなんて分かり合えないとの残酷さを
多くの人が自覚し、
行動することで無駄に心に傷を背負わせるような
繋がりが増えませんように。

新しいあるべき秩序は大いに多様な人で議論しよう。
多様であるからこそ個人として抱いてしまう「モヤモヤ」した感情は
自分の心で飲み込みそっと向き合い方を探してみよう。

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<理解できないものを理解する体験>

私はどちらかというと、まとも側の人間で守るべき秩序や正しさを盾に心の底から多様性を受け入れるのは苦手だと思う。

少子高齢者社会で人口が減っており
雇用を限りある人的資本で回すとの文脈において
合理的に考えて女性の雇用環境を整えて働きに出ないと雇用が回らないし、他者に理解されないことで個の特性が最大活用されない場合に生産性が下がるとの必要性から多様性な雇用の在り方を実現させるべきだとは強く思う。

一方で心の底から多様な視点を受け入れることはたぶん苦手だ。
人との繋がりは多く、多様な人と関わる機会はあるので
多様な感情や存在は認知はしているし、1次的には受け止めている。
でも、自分と深く関わる人たちはものすごく少数に狭めているし
アドバイスを聞き入れる対象もものすぐ少数に狭めている。
自分の視点の中で多様性を許容できるかはまた別な気がする・・
自覚しているのでもっと多様な視点を自分に取り入れようと
現在も多様性との言葉との向き合い方は模索中・・・

私は自分の普通でない部分を普通の盾で守ってきた側の人間だと思う。
一方で自分の不完全さを許容できたとき、してもらえたときに
誰にだっていい所・悪いとことがあると優しくなれた気がする。

学校の授業の一環で
介護施設で重度障がい者の方のデイケアボランティアに3週間参加した。
1週間目は利用者の方と関わりたくなくて掃除をずっとしていて
正直、なぜ話すこともできない・起き上がることもできないのに
生きるとの選択を残されたことを残酷だと感じてしまい、
なぜ生きるのかを考えながら毎日、無駄に掃除をしていた。
人だと思えなくてショッキングだったからだ。
こんなこと発信してはいけないと思いながらも、
その時は本当にそう思ったのだ。

それでも利用者の方に愛を注ぐ家族や福祉の仕事をされている方はいて
その人たちを横目に見ていると
自分が冷たい人間だと感じることが嫌だった。

当時付き合っていた彼に
生きているのに息をすることの他は自分でできない状態を見るのがショッキングなこと、そして人を受け入れられない自分が嫌で
本当に明日から行きたくないと電話したら
「嫌だと思うのは仕方ないけれど、
嫌だから逃げるのは違うよね。せっかく普段しない経験ができるなら
嫌だと思うからこそ関わってみたらどう?」と提案されたので
2週間目から毎日利用者の方に話しかけるようにした。

最初の方に手を強く噛まれて血がでて腹が立ったし、
やっぱり関わりたくないと思った。

でも、我慢して関わり続けたら話せなくても何考えているかわかるようになってきて、求めていることを察してしてみたら笑ったときがあった。

言葉にできないけれど、この体験が私には大きかったし、嬉しかった。
そして福祉施設の方が最後にボランティアにきてくれた大学生の中で
ちゃんと向き合ってくれた人は初めてで嬉しかったと
私に寂しそうな顔で言ったことも私にとってはとても大きかった。

もしかしたら「分かり合えない」「理解できない」の壁を
はじめて超えれた瞬間だったのかもしれない。

私だって「どうせ理解されないよね」この感情が
社会の「普通」を盾にするようになっていただけで、
どうせ理解されないと諦めたくない感情や
モヤモヤが本当は沢山あった。
それでも「普通」でまともな自分の枠を必死で守ってきたように思う。
自分だって「普通」ではない何かを持っていたのは気付いてきたけれど
「普通」の枠を守って生きるしかなかった。
その積み重ねがどうしようもない
孤独感を生み出して生きてきたようにも思う。

だからこそ本当は多様性を受け入れるなんて言葉は
私が1番苦手なのかもしれないけれど、
もっと自分が理解されることも
誰かを理解することも
諦めずに生きていけたらいいな。

今は心からそう思っています。

すべての人に愛をもって。

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