終活中

 別に薄暗い話じゃあない。

 一年前くらいだろうか。ふと、「そろそろ終活をしたほうがいいかもしれない」と感じたのだ。

 ちなみに、私の終活の定義は「死ぬまでに一度はしてみたいことをする」だ。もしかしたら専門家の言う「終活」とは離れた意味を持つかもしれない。けれど、少なくとも私ははっきり「死ぬまでに」という部分を意識している。

 もちろん、いまの私はそれなりに健康だ。飯をよく食べ、まあまあちゃんと眠り、精神状態もそれなりに良好で、たまに焼肉の次の日にラーメンを食べ、さらにそのあとおやつにドデカクレープをいただくなどしているが、そこそこ元気であり、まだ死ぬ予定はない(明らかに不健康な食生活。改善します)。
 レズビアンは特に老後のことを意識するのが早い人が多い気がする(このことについて記述しようとしたらあまりにも長くなりすぎたので全カットする。また別の機会に)。
 なので、私が終活を意識するのも、まあ鮭が海を目指すようなものだ。
 まず私が第一に駆り立てられたのは、「死ぬまでに生で観たいアーティストのライブに行かねば」という焦りだ。
 私の人生の基底には、さまざまなミュージシャンたちの奏でる音楽と紡いだ言葉がある。ロックンローラーが、彼らの作る歌や詩を通して、私に人生を教えてくれた。

 音楽の醍醐味をどう捉えるかは、人によって異なるだろう。私がちょっと背伸びした音楽を聞き始めた時は、インターネットも今ほど発達していなかったし、音楽といったら、CDかテレビか、という感じだった。音楽番組を見て、彼らの曲や存在感、エネルギーに憧れていた。
 だから、私の中ではミュージシャンとは「私を自分の演奏や歌、そこに込められたエネルギーで圧倒してくれる」存在なのだ。また、音楽家たちも、ライブや演奏会を何より愛しているような気がする。(このあたりの価値観は、もしかしたらインターネットで発生・拡散・隆盛が完結するようになった今の時代では異なるのかな。ちょっとそれも気になるところだ)

 もちろん、CDを通して圧倒された記憶もあるが、やはり横っ面張っ倒されたような気持ちになって、「こんな夜、忘れられるわけねーだろ!」と大して飲めもしない酒を煽りたくなる衝動に襲われるのは、圧倒的にライブが多い。
 再現性のない、一晩で消えてしまう儚い一瞬。

 音源は、永遠だ。彼らの作った音楽は色褪せない。けれど、彼らの肉体は朽ちる。

 私がNIRVANAの音楽に出会った時は、カートは既にバーン・アウトした後だったし、HIDEだってもうこの世にはいなかった。
 フェスで観て、「昔の方が良かったよな」なんて友達と知った気になって語り合ったあのミュージシャンも、ある日、いきなりいなくなってしまった。隣にいたお姉さんたちが「本当に最高だった」と泣きながら感想を語り合っていたバンドのボーカリストも、突然神様に連れていかれてしまった。彼女が「最近好きなんだ」とドライブで曲をかけてくれたあの人も。あの人もあの人も。

 私が生きていても、明日のことなんてわからないと言わんばかりに生命を削ってパフォーマンスをするミュージシャンたちがいつまでステージに立ってくれるかはわからない。

 私が思っているより人の命は儚い。だからは、「(君か私が)死ぬまでに生で観たいアーティストのライブに行かねば」と焦って終活をはじめた。
 でも生きてたら、死ぬまでに会いに行かなきゃならないミュージシャンがどんどん増えていく。
 生きていく理由って、案外それくらいシンプルなのかもね。

 みんなが死ぬまでに観たいアーティストって誰かな。
 私はとりあえず、椎名林檎だな。



食生活の改善は、今後がんばります…。
ラーを禁じるのは、無理。




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