「カメラ」という名の暴力


 カメラとは、素晴らしいものだが、時に暴力的なものだ。今週撮った写真を見返していて、特にそれを強く感じた。

 私の趣味の一つにカメラがある。少なくとも、二次創作よりは長い期間やっている。ホント? 写真撮ってるところ見たことないよ? と思われるかもだが、本当だ。仙台国分町の飲み屋で聞いてみてほしい。全然ヘタクソだけどね。

 ちなみに私は現像(加工といった方がわかりやすいか)ができない。ライティングもできない。だから、スタジオ撮影などがからっきしヘタクソなのである。かといって、ブツ撮りがうまいわけでもない。

 えっ、壊滅的では……?

 そんな私に、いったい何が撮れると?

 それは、人間のエネルギーである。逆に言うと、私はそれしか撮れない。

 縦横無尽に動き回る人間たちの生々しいエネルギーを切り取り、映し出す。筋書きのない写真。そういうドキュメンタリーみたいな写真が好きだ。

 私はCanonの70-200mmというレンズを愛用しているが、これがまた私の撮りたいものにピッタリ合う最高のレンズなんだ。
 レンズと画角はセットで考える必要があるが、200mmというのは、いわゆる『望遠レンズ』の部類になるだろう。
 まあ、野鳥や馬を撮るには少し長さが足らず、人を取るにはちょっと長すぎるというレンズではあるが、被写体と適度な距離を取りながら写真を撮るには最適だ。

 被写体と適度な距離を取りながら写真を撮るということは、被写体が「いま撮られている」と気付かない可能性があるということだ。

 競馬場で撮影した馬や騎手の写真がタイムラインに投稿される。よくあることだろう。私も上げる。しかし、馬はともかく、騎手はいちいち撮影許可を出すだろうか。出すはずがない。私たちは、隠し撮りを容認してもらっているにすぎない。

 私たちカメラマンは、見えているものを全て撮れてしまう。
 その責任の重さを、最近ひしひしと感じるのだ。

 特に私は、ライブやイベントを撮るのが好きなタイプだ。ポートレートやスタジオ撮影みたいに、モデルさんがビシッ!と決めてくれている瞬間を撮るのではない。半目の写真を撮ってしまうこともあれば、動作の中の崩れた一瞬ーーあまりにもとんでもない一瞬を撮ってしまうことがある。

 被写体が絶対に世に出したくない一瞬を撮ってしまう。それが趣味の世界のカメラだ(プロだってとんでもない一枚を撮ることはあるだろうが、そんなものを世に出したらアホンダラだと思われる)。

 私の目の前で起きている素敵な瞬間を切り取る。それが、私にとってのカメラだ。
 カメラは、あまりにも優れている。被写体が意図していないものまで撮ってしまう(心霊的な意味ではない)。

 それを思いながら、先日イベント写真を撮った。しかも、LGBTのパレードという超ビッグイベントだ。責任もある。

 LGBTのイベントでカメラを持つことは初めてじゃない。わりとよくあることだ。けれど、毎回緊張する。

 彼ら彼女らみんなたちは、人の目を潜んで生きている場合が多い。生きていて、それだけ怖くて辛い目にあってきたからだ。

 カメラは私の目だ。みんなを写真に映すというのは、みんなが私の視線にさらされるのと同じ。緊張もするさ。

 とにかく必死に撮った。猛烈に撮った。集中して撮った。激しく動きながら撮ったから、途中で太ももが肉離れを起こしかけた。あまりにも軟弱者。

 それはさておき、ひとまず無事にイベントは終わった。気になるのは写真のデキ。使えないポンコツ写真ばかりだったらどうしよう。
 ドキドキしながらSDカードを読み込み、驚いた。

 みなの表情の表情の晴れやかさたるや!

 自分に向けられたカメラに気付いた人たちは、みな例外なく満面の笑みでピースサインを向けてくれていた。それが、はっきりと写真になって残っている。
 百人単位の弾けるようなポジティブなエネルギー。「楽しい!」という感情が、データからビリビリ伝わる。

 正直、写真を見ながら泣きそうになった。どう切り取られているかわからない私のカメラを信頼して、笑顔を向けてくれる。その瞬間を、私は確かに切り取ることができた。

 こんなに幸せなことはない。

 やはり、写真は良い。
 人間のエネルギーというものは良い。
 来年はもう少しカメラも真面目にやりたいな。これ毎年言っているが。

 自分に向けられた私のレンズに対して、安心した笑顔を見せてくれる人に応えるためにも、やはり、もう少し修行が必要である。
 押忍。

 今週は隙間時間にスマホでオタク作文を楽しんでしまった。そうなるとなかなかnoteに手が付かない。もっと効率的にいろいろやりたい。


行進最中に見かけた仔馬。
人がたくさん通ったのに落ち着いてお利口だった。


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