正義の闘い:社会的欲求の機能と攻撃的言動の是非について


1.1 概要

現代の社会が抱える問題として、進歩派と保守派の間の確執がある。その点について何らかの答えを出そうとすると、究極的には正義について考える事を迫られるであろう。ただしより基礎的には個人の心理という観点から、またより一般的には社会の現象という観点から考察する事も可能である。

進歩派の興隆については、現代という時代の特異性にその一因を求められる。つまりそれをある種の現代病と見做し、その対処として、人間の心理的な特徴に基づいて、二つの点を指摘できる。

現状がいかに優れていても、そこで満足するのではなく、さらなる高みを目指すという向上心が重要であろう。また今日では個人の自由や権利が強調される傾向が強いが、共同体や社会などの集団への志向性も重要であろう。

それに関係して、個人主義的な観点に偏重するのではなく、全体的な公益性という要素も善悪を判断するための一つの拠り所になると思われる。


1.2 進歩派と保守派の対立

この数十年間、先進諸国においては大規模な戦争は発生しておらず、まずまずは平和が維持されている。しかし国内の情勢に注目すると、安寧な状態であるとは言い切れない。民主主義の体制下では、各々の人が異なる意見を持っていて当然であるし、多少の競争が行われている方が健全でもあるが、近年の進歩派と保守派の対立は度を越しているようである。

そのような現象は特に欧米では大きな問題になっているらしい。例えばあるアメリカ人によると、「保守的な州では」という但し書き付きながら、リベラル派に対する印象として、「腹黒くて、胡散臭い」、「抑圧的で、批判ばかりで、うっとうしい」、「自分たちだけが絶対的正義と考えていて傲慢」(ケント・ギルバート『リベラルの毒に侵された日米の憂鬱』)などというように非常に厳しい言葉で非難されている。

また日本においても、進歩派やリベラル派への評判は必ずしも良いわけではない。それへの批判的な書籍も出版されていて、幾つか挙げると、『「悪魔祓い」の戦後史―進歩的文化人の言論と責任』(稲垣武著)、『日本人にリベラリズムは必要ない。「リベラル」という破壊思想』(田中英道著)、『悪魔の思想―「進歩的文化人」という名の国賊12人』(谷沢永一著)などがある。

現代の社会における進歩派の興隆(保守派はそれを跋扈と呼ぶであろう)という現象に注目し、その原因や背景について考察し、それへの対処を提示するのが本書の目的である。

物事を考える場合には、言葉の意味を厳密に定義してから論ずるのが適切である。ここでは進歩派というあまり厳密ではない言葉を用いたが、政治的な議論においては、革新派あるいはリベラル派という用語も一般的である。

ただしリベラルという用語も、歴史的に意味が変遷しているという事情もあって、その内容を明確にする事は難しい。そのためここでは単純に考えて、積極的か消極的かの違いによって、進歩派と保守派という分類を設ける事にする。

用語の問題はともかくとして、両者の対立は主観的な価値観の相違であって、そこに絶対的に正しい答えなどは存在しないという見方もあり得る。進歩派に言わせれば、保守派とは時代の変化を受け入れない不寛容で退嬰的な人々であろうし、その一方で、保守派に言わせれば、進歩派とはポリコレを錦の御旗に掲げて暴れる傍迷惑な人々であろう。

その辺りの賛否は割れる所であり、そこを突き詰めて行くと、善悪とは何か、正義とは何かという難しい問題に繋がる。なお井上達夫は『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』の中で、「私は『リベラルの基本的な価値は自由ではなく正義だ』という趣旨の基調論文を書きました。それが私のリベラリズム理解です。無理に日本語にするのなら、『正義主義』とでも言ったほうがいい。」というように、リベラルの根本は正義であると述べている。

善悪論は高尚ではあるが、抽象的で取り留めのない話になり勝ちである。自然科学とは違い、人文科学の世界では割り切った明確な結論を導き出せないのが普通である。なお社会生物学という分野がある。生物学の領域を個体から集団へ拡張させ、社会現象をも対象として組み入れるという考え方である。

個体を単位とした行動分析なら比較的取り付き易い。それを踏まえて、政治や経済という集団の振る舞いを考察し、さらに善悪の議論を行うという方法が可能であろう。

意味としては似ているが、印象としては乖離が甚だしいという言葉がある。例えば慎重と臆病あるいは勇敢と野蛮というような組み合わせがそうである。誤解を恐れずに言うと、進歩派に見られる積極性を攻撃性と形容できる。個々人の生理や心理について述べるにあたり、まずは攻撃性という面に注目したい。

2.1 攻撃という言葉の解釈

攻撃とは意味のはっきりしない言葉である。広辞苑には「進んで敵を攻めうつこと」、「他人の行動・意見などを論難すること」とある程度で、それだけでは攻撃の是非や善悪については何とも言えない。

英語のアグレッションまたはアグレッシブという言葉も多義的である。日本語にすれば、攻撃、暴力、積極的、意欲的という意味になり、そこには肯定的な意味と否定的な意味の両方を見て取れる。

攻撃を形態面で分類するなら、程度の大小は当然ながら重要な基準になる。また協力しないというような無為の行為も一種の攻撃と見做されている。

少し見方を変えて、攻撃を機能として見る事も可能である。自然界においても、人間社会においても、競争は存在するわけであり、積極性は生存のために有用という以上に必須でもある。攻撃という積極性は不可欠の特性であるというように、必ずしも否定的ではなく、肯定的に取れるのも事実である。

つまり攻撃とは非常に意味の広い言葉であり、様々な様態の行為を攻撃という一言で一義的に理解しようとするのが不適切であると言えるかも知れない。

なお語感として攻撃という言葉には強い悪印象が付き纏っているという点を指摘できる。その理由を二つの点から説明できるであろう。

経済学の基本として、市場における競争を経て、優秀な企業などが生き残り、結果的に社会の繁栄がもたらされると考えられている。公正な競争という条件付きであるが、そこでは攻撃性が是認されている。

ただしそれは全体的に見ればの話である。それぞれの個々人の立場からすれば、理屈は逆になるであろう。自分と対立関係にある競争相手としては、積極的であるよりも消極的である方が望ましいという考え方に傾くはずである。

また大衆の支配や管理という観点からも攻撃は非難されるであろう。社会の安定や治安の維持のためには、人民の性質として、穏和さや従順さが重視されるはずである。これらのような事情から、攻撃は有害または不道徳的であるとして、非難を受けるに至るのであろう。

攻撃を論じている研究書は少なくないが、そこでも攻撃の有害性が強調され、暴力と同じような意味で用いられたり、また社会病理という扱いを受けている場合もある。

もちろんそれはそれで一理ある見方である。意欲とか積極性などを客観的に評価するのは困難であるし、また言論による批評を攻撃と見做すかどうかの線引きも微妙な問題である。攻撃であるか攻撃でないの判断基準として、物理的な損害の有無という要素を用いるのは明快である。

しかし攻撃と暴力を同義語と見做すのは視野の狭い見方であろう。殴る蹴るの類の行為は攻撃性の一部分に過ぎず、それを攻撃の本質と見做すと、肝心な部分を見落す事になると思われる。

攻撃については、ローレンツの『攻撃』が知られている。それは攻撃についての古典的著作であるが、批判の対象にもなっている。それに対して、後に本人が攻撃と暴力は同じではないというように補足している。

「あなたの質問は、なぜあれほど多くの人たちが感情的な反発を示したか、そして私がまるで暴力を弁護したかのように受けとったかの説明になります。」「ですからこのタイトルは『On Aggression』ではなく『On Aggressivity』とすべきで、『On Violence(暴力について)』でないことは確かです!」(R・I・エヴァンズ『ローレンツの思想』日高敏隆訳)

そもそもローレンツは『攻撃』(日高敏隆他訳)で、以下のようにも述べている。
「人間の行動様式のどれほど多くのそしてどれほど重要なものが、攻撃性(アグレッション)をその動機としているか想像もつかない。おそらく大部分がそうだろうと思う。『アグレディ』(aggredi)という言葉のそもそものそしてもっとも広い意味は、課題や問題をとらえること、みずからを重んじることである。これがなければ下は毎日ひげをそることから、上は最も高尚な芸術的もしくは科学的創造にいたるまで、ひとりの男が朝から晩までに行なう大部分の行為が姿を消すだろう。そして野心とか高い順位をえようとする努力とかかわりのあるいっさいのことや、それと同じ無数の不可欠のことが、たぶん、攻撃衝動を断ち切ると同時に人間の生活から消滅してしまうことになろう。」

この著書が発表されたのは数十年前であるが、現在においても、人間の精神や心理の大部分は謎に包まれたままである。積極的であるという事は、言い換えると、何らかの行動が生じるという事である。行動が生じる理由として、快感の発生(あるいは不快の低減)が原因であるという見方が一般的である。例えば動物が餌を食べるのは、そこに快が伴うからであるというように説明される。

しかし衝動が生じるから行動が生じるという説明も可能である。それは同語反復めいた表現ではあるが、快感と衝動を分離して理解するという考え方がある。

2.2 欲求と好悪の区別

行動の背景にある生理的な機構について、近年興味深い知見が明らかにされた。動物が何かを欲して行動する事と、何かによって快を感じる事を別個の現象として区別するという考え方である。

べリッジらの実験によると、マウスは脳内のドーパミン系を破壊されると、餌を食べるという行動を取らなくなるが、その状態でも甘味を与えられると喜びの表出を示すという。

コトバンクの「脳内報酬系」の記事を引用すると、それは「『wanting』すなわち報酬を欲しいと感じて行動を起こすこと(欲求)と,『liking』すなわち報酬を好ましいと感じること(快)には,行動学的にもその脳内機序についても,乖離があるという説」である。

それに関係する話題として、ドーパミンの過剰が統合失調症の陽性症状の原因であるとするドーパミン仮説がある。またパーキンソン病の運動障害にはドーパミンの減少が関わっているという。それらはべリッジらによるドーパミンについての主張と整合性を持っている。

生物学においては、特に実験室の中での動物の観察においては、行動をする事と快を感じる事は同一視される傾向が強かったようである。しかしべリッジらの研究はそのような旧来の見方を覆したわけであり、その点において革新的であると言える。

人間の精神構造は複雑であり、目標に至るまでの過程を楽しむという心理状態はあり得るが、行動の発生と快感の発生は同義ではない。特に何もせずに安静な状態でいて、心地良いという場合もあるし、また逆に積極的に動き回っていて、苛立っているという場合もある。

極端な例として、ある種の薬物中毒者は薬物を入手するために犯罪行為をするまでに至るが、その時の主観的状態は焦燥感や切迫感とでも呼ぶべきで、快感というよりはむしろ苦痛であろう。

またそのような問題をさらに複雑にする事情として、欲求と快感の区別があるというだけでなく、快感と不快感もまた別個の機能であり、脳内には報酬系と罰系が存在するという。快かさもなくば不快であるという二元論的な思考法が取られる事も少なくない。しかし愛憎相半ばするという言葉もあるように、生物学的な観点から言えば、それは単純明快ではあるが、正確ではないのであろう。

生物学で四つのFという言葉があり、闘争、逃走、摂食、生殖を指す。自然界にはフリーランチなどという物は存在せず、縄張りや食物や雌などは奪い合いの対象である。それら得るためには苦労や努力が必要である。怖気づく事や気が引ける事に対して、水火も辞せずというような猛々しい果敢さが必要である。

障壁を乗り越えるような勢いを生じさせる推進力が欲求であると言える。その意味では、欲求というよりも衝動や動因という言葉の方が相応しいかも知れない。また文脈によっては、そのような行動を怒りとも呼べる。

窮鼠猫を噛むという諺があるが、その時のネズミは嬉々として攻撃するのではないであろう。むしろその内面には大きな恐怖や嫌悪が存在していると
思われる。恐怖や嫌悪という感情は逃避行動を引き起こす要因であるが、それらを凌駕する程の大きな衝動が生じる事によって、個体は攻撃という前向きな行動に駆り立てられるのであろう。

ネズミはともかくとして、犬や猫の表情を見れば、専門家でなくてもその心情をある程度は読み取れる。犬や猫が獲物を追いかける時の表情は楽しそうであるが、強敵を威嚇する時の表情は醜く歪んでいる。その理由は、内面に生じる衝動に突き動かされ、勝ち難い相手に立ち向かうという危険な行為を嫌々ながら取らされるという心的状態になるためであろう。

3.1 人間は社会欲求を持つ

神経学的に欲求と快感を区別できるという事を述べた。ただし欲求自体が明確に理解されているわけではないし、また欲求を衝動や動機などという概念からどう区別するかという問題もある。厳密にはそのような複雑さはあるが、欲求という用語は一般的であるため、ここではその表現を用いる事にする。

欲求という言葉が指す意味は広く、考え方によっては、呼吸の継続や体温の維持なども含まれるのであるが、代表的な例として睡眠欲・食欲・性欲が三大欲求と呼ばれている。人間に関して言えば、それらに加えて、社会欲求を四つ目の欲求として位置付けられるであろう。

社会欲求によって社会的行為が生じるという説明は同語反復的である。しかし人間が社会的行為に多大な時間と費用をかけているのは事実であり、それは欲求に起因する生理的な現象であると見做せる。

社会的行為には様々な形態があるが、他者との接触や関与を伴う行為全般がそれに該当すると言える。そこには実益が無いというわけではないが、娯楽あるいは退屈凌ぎとして、それ自体のために行われるという点が特徴的である。

人は身の回りの他人に興味や関心を持っていて、暇さえあれば、世間話や噂話に興じている。またメディアの鑑賞のために長時間が割かれ、映画などは巨大な産業である。さらにより高級な例としては、社会活動や政治運動に参加するという行為もある。それらは全て社会欲求に起因するのであろう。

他の動物と比較して、人間の社会性は非常に発達している。その意味では社会性は高尚であると言えるかも知れない。しかしだからといって、それを非動物的な特性であると見做すのは不適切であろう。社会性は乾いた理知的なものというよりは、湿った情緒的なものであるように思われる。

欲求については、目的論的な見方が取られる場合も多い。例えば動物は栄養を得るために食べるというような説明がされる。しかし動物は目的などを認識しておらず、食べたいから食べているというのが実際の所であろう。

人間の社会性もそれと同じであり、社会を構築するという目的のために社会を構築しているというよりは、社会的行為に快感が伴うので、自然発生的にそうなっているのであろう。

人間は個々人では無力である。しかし社会欲求を持つ事によって、社会集団が形成され、他種との生存競争において有利になる。またその過程で快感を得られるのだから、自然の摂理は実にうまく出来ていると言える。

3.2 欲求は暴走を引き起こす

欲求がいつも満足させられていれば何も言う事は無いが、現実はそう甘くない。欲求が満たされないと、内面の問題としては、焦燥感や不快感が生じるし、外面の問題としては、逸脱的な振る舞いが生じる。例えば食欲や性欲が高じると犯罪的行為の原因になりかねない。

食欲や性欲よりは程度は軽いとはいえ、社会欲求も同じ性質を持っているであろう。社会欲求が解消されないと、過激な行為が生じ、それは社会的な攻撃と見做される。

心理学において、刺激反応理論の影響が強いためか、行動は、特に攻撃的な行動は刺激に対する反応であるという見方が多いようである。そこからは刺激が無ければ攻撃は生じないという見方にも繋がる。しかしローレンツは『攻撃』で、攻撃は自発的であると主張し、また社会的接触が十分でなければ、それを解消できなくなると述べている。

「つまり本能というものは自発的なものだからだ。もし攻撃本能が、多くの社会学者や心理学者たちが考えたように、一定の外的条件に対する反応に過ぎないのであれば、人類の現状はこれほど危うくなりはしなかったろう。もしそうなら、反応を引き起こす諸原因をつきとめて、取り除くこともできよう。攻撃の自立性を初めて認めたという点では、フロイトはほめられていい。事実彼は、攻撃をきわめて起こりやすくする原因のひとつとして、社会的接触の不足、とりわけ接触の喪失(愛の喪失)をあげてもいるのである。」(コンラート・ローレンツ『攻撃』日高敏隆他訳)

この文章に続けて、その当時はある種の子育て方法が流行していたらしく、それが失敗に終わったという結果を挙げて、攻撃は自発するという主張の根拠にしている。

「これはこれとして正しい見方なのだが、これを取り違えてアメリカの教育者たちの多くが、子供たちを幼児からフラストレーションということを知らずにすむように守り、どんなわずかな点でも子供たちに譲るようにすれば、もっと神経質でない、外界にもっとうまく適合した、とりわけもっと攻撃的でない人間が育つだろうと考えたのはまちがいだった。この仮定のもとに方法を立てて子供を教育してみた結果は、攻撃衝動も他の大多数の本能と同じく、人間の内部から『自発的に』でてくることがわかっただけのことだった。ぞくぞくとできあがったのは、がまんのならない厚かましいしろもので、何から何まで申し分なかったが、惜しいかな、ただひとつ非攻撃的でないというしだいだった。」

人間性に関する無知が引き起こしたもう一つの失敗例を紹介する。刑務所の制度として、厳罰によって人間の攻撃性を抑制しようとする試みがあったらしいが、それは成功しなかったという。

「刑務所長らはそろって、刑務所をもっと過酷な場所にしても『増えるのは暴力だけ』という意見だった。」「多くの画期的な改善がなされた東懲治監の矯正プログラムが失敗したのは、行動生物学の基本原則を無視していたからである。社会的動物は孤立しては生きられないということだ。」「馴れは侮りにつながるかもしれないが、孤立は暴力を生む。動物、それもオスの攻撃性を激化させるいちばん確実な方法は、孤立させることだ。たとえばマウスは隔離期間が長いほど攻撃的になる。」「孤独な暮らしはストレスが大きいが、孤独が好戦性につながる理由はそれだけではないらしい。ケアンズは、孤独が自己を肥大させるのではないかと見ている。」「集団生活をしている動物は、過度に攻撃的な動きは仲間に受け入れてもらえないことをすぐに学ぶ。時間とともに集団生活というしくみによって限度が生じ、それが攻撃性を抑える。」(デブラ・ニーホフ『平気で暴力をふるう脳』吉田利子訳)

欲求の不満という表現はよく使われるが、不満よりも蓄積という言葉の方が当を得ているようである。鬱積の解消という意味において、社会欲求は排泄欲求と通じる所がある。ただし余程の事態を別にすれば、心理的な抑制が無意識的に作動するようで、そう簡単には排泄は実行されない。

また社会欲求は暴走を引き起こし得るだけではなく、心理的な苦痛の原因にもなる。攻撃について理解しようとすれば、そのような厄介さをも考慮に入れる必要があろう。

3.3 欲求不満による虚無感

社会の秩序を守るためには、犯罪的な逸脱行為はできる限り抑制される事が望ましい。その点は当然であるが、それだけではなく、個人の幸福という観点から、精神的な健全さにも注目されるべきである。

この世は地獄であるとか、人生は苦難の連続であるという類の悲観的な見解は古くからある。現代に生きる多くの人が、漠然とした不満足感を抱いていると思われる。

精神科医のヴィクトール・フランクルによると、そのような病んだ精神状態は社会に広く蔓延しており、彼はそれを実在的空虚と名付けている。またそれが様々な問題行動の原因であるとしている。

「今日、これまでになく多くの患者が、無益感や空虚感、無意味感といった感覚――本書では『実存的空虚(existential vacuum)』と呼ぶ――を訴えて精神科医を訪れている。実存的空虚が増加し広がっていることは疑いようのない事実である。五〇〇人の若者を対象としてウィーンでおこなわれた最近の調査では、実在的空虚に苦しんでいる若者の割合は、ここ二年の間に、三〇%から八〇%に増加している。」(ヴィクトール・E・フランクル『虚無感について』広岡義之訳)

フランクルは実在的空虚という問題への対処として、「意味への意志」が重要であると述べている。彼は著書の中で、ニーチェの言葉を引用している。哲学者の用いる言葉は独特の趣きがあるが、両人とも同じような見解を述べている。

「人間は要するに、一個の病める動物であったのだ。だが、苦悩そのものが彼の問題だったのではなくて、<何のため苦悩するのか?>という問いの叫びにたいする答えが欠けていることこそが問題であった。人間、このもっとも勇敢で苦悩に慣れた動物は、苦悩そのものを否みなどはしない。いな、苦悩の意味、苦悩の目的(Dazu)が示されたとなれば、人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする。これまで人類の頭上に広がっていた呪いは、苦悩の無意味ということであって、苦悩そのものではなかった。」(『ニーチェ全集第10巻『善悪の彼岸・道徳の系譜』』信太正三訳)(原文傍点有り)

昔の精神分析理論では、神経症的な症状をすぐに性欲に結び付けるという傾向があった。脳内でどのような機構が働くのかは不詳ながらも、何らかの抑圧によって神経症が引き起こされるというような事がよく言われる。

しかし現代社会に広く見られる虚無感の原因について考える場合、性的欲求の不満よりも、社会欲求の不満に注目する方が適切であると思われる。社会欲求という言葉も非常に曖昧ではあるものの、そのように考える方がまだしも正確であろう。

精神分析の分野に限った事ではないが、人間は本来的に病んだ存在であるというような見方がある。その点については、現代社会の特異性を考慮して、心理だけでなく、環境をも視野に含めるべきであろう。

4.1 現代社会の不自然さ

現代はある意味で異常な時代である。かつては飢餓が珍しくなく、病気による死亡率は非常に高く、自然の脅威に対して無力であった。人類史を全体的に俯瞰すれば、ごく最近までは、そのような欠乏や苦難は手に負えない問題であった。

しかしそのような状況は科学革命や産業革命を通じて大きく様変わりした。それらがどれ程の甚大な影響を及ぼしたかについては、近年の爆発的な人口増加を見れば明瞭である。

大きな変革が見られたのは、技術の分野だけではない。政治の世界においても、奴隷制は廃止され、専制者は打倒され、18世紀以降に至り、自由・平等・博愛の精神に基づく社会が実現された。それは政治体制としては理想的な境地であると言える。

フランシス・フクヤマは東西冷戦の末期に『歴史の終焉?』という小論を発表し、西側諸国の政治の思想的な優位性を論じている。

それは東側陣営に対する勝利宣言に留まらず、自由経済と民主主義を政治体制としての最終的な形態であると位置づけ、最終的であるからには、それ以上は進展は起こらないはずであり、つまり歴史は終わったと主張している。ただし彼はその事を述べる際に、必ずしも嬉々とした態度を取っておらず、むしろ一抹の寂しさを覗かせている。

「歴史の終焉は悲しい時代になるであろう。承認のための闘争、純粋に抽象的な目標のために生命を賭ける心意気、大胆さ・勇敢さ・想像力・理想主義が要求される世界規模でのイデオロギー闘争が、経済的な損得勘定・際限のない技術的問題の解決・環境への懸念・洗練された消費者の要求を満足させる事に取って代わられるであろう。歴史が終焉した世界には芸術も哲学も存在しなくなり、人類の歴史という博物館の永続的な管理が残されるのみである。歴史が存在していた時代への強い懐古の念を私自身も感じているし、また私の身辺の人達にも見られる。そのような懐古の念は、実際の所、歴史が終焉した後にもしばらくの期間は競争や衝突を勢いづけるであろう。私はその不可避性を認識しているつもりではあるが、1945年以来ヨーロッパで成立している文明社会とその影響を受けた北大西洋とアジア諸地域に対して、極めて強い相反的な感情を抱いている。もしかしたら、歴史の終焉した後の何世紀にも及ぶであろう退屈さという予見それ自体が、歴史を再び始動させる一助になるかも知れない。」(フランシス・フクヤマ『歴史の終焉?』)

理想に到達すれば、そこで満足感を得られそうなものであるが、実際にはそれとは逆に、悲しさや退屈さを覚えるとは皮肉な話である。ただしそのような逆説的な現象は無いではなく、例えば戦時よりも平時の方が自殺率が高いとか、北欧の福祉国家で自殺者が多いという事が知られている。

その辺りの複雑な事情を理解するためには、人間の性質はどのような環境で形成されたかという点を考える必要がある。現在でも文明の影響をほとんど受けずに伝統的な生活を保持している人々が存在するが、彼らは狩猟や部族間の対立で負傷したり戦死するなどの危険に曝されている。

人類は物質的または精神的に進歩を続けて来たが、それを実現させるためには、問題を解決しようとする意気込みや、障壁を乗り越えるための勇猛心などの積極性が必要である。しかし現在の豊かで安全で機械化された社会では、生きていくだけなら、特段の気概は必ずしも必要でない。人類史という観点から言って、そのような状態は前例の無い異常な事態であろう。

環境は急激に変化する事はあるが、人間性はそう簡単には変化しない。その両者の乖離によって引き起こされる問題を現代病と呼べる。

例えば肥満の問題がある。人間は食える時には食い溜めするように出来ているようで、現代のように食物が有り余っていると、過食に陥りがちになるのはやむを得ない。

また自己免疫疾患も現代病として挙げられる。感染症を予防するという目的のために、身の回りの病原菌や異物を過剰に除去すると、厳密にはどのような仕組みが働くのかは不詳であるが、免疫機能が暴走して、自己を攻撃するに至るという。言い換えれば、不自然な清潔さが自己免疫疾患の原因であるらしく、都市よりも農村のような環境、つまり多少の不潔さの残る環境の方がそのような症状が少なくなるという。

また都市生活には社会的に孤立しやすいという傾向がある。伝統的な社会の濃密な人間関係には、煩わしさが伴うかも知れないが、群れずにはいられないのが人間の特徴である。かつての農村人口は8割とか9割を占めていたが、今ではその割合に大きな構造的変化が生じている。それは大衆の心理面に大きな影響を与えているはずである。

虚無感や攻撃性などの心身面での不調についても、現代社会における不自然さが原因になって引き起こされる現代病であると見做せる。

病気には対処が求められるが、自然状態に戻るという選択肢は脆弱な現代人にとって現実的ではない。なお野性化とは逆に、人は自己家畜化しているという考え方がある。個人の独立性を尊重する立場からは、そのような表現は歓迎されないであろうが、一面においては、それに真実性があるのも確かである。

飼育下という環境も不自然な状態である。例えば齧歯類の歯や牛馬の蹄は成長し続ける。硬い物を齧ったり、荒れ地を駆けるためには、その方が好都合である。しかし柔らかい餌を食べたり、あまり歩かなくなると、それらは摩耗せず、過剰に伸びて、噛み合わせが悪くなったり、歩きにくくなるという問題が生じる。それを防ぐためには飼育者の側で人為的に削る必要がある。

それらは物理面の現象であるが、精神面でも同じような蓄積と解消が生じ得ると推測できる。例えば動物園の動物は、天敵もおらず、飢える心配も無いという環境に置かれている。しかしそこには何かが欠けているようで、常同行動などの異常を示す事がある。

また『攻撃』によると、動物が飼育下に置かれると、求愛や攻撃において、「行動を解き放つ刺激の限界値が下がって」、「生物体全体を巻き添えにしてゆく」ような現象が生じるという。

「本能運動から今のようなやり方で沈静の可能性を取り上げてしまうと、それが真の本能運動であれば必ず、動物は全体として不安に陥り、その本能運動を解き放つ刺激を探し求めるようなるという特質をもっている。この探すという行動は、もっとも単純な場合には、あちこちと走り、飛び、あるいは泳ぎまわることだが、もっとも複雑な場合になると、学習と理解の行動様式をことごとく包括していることがあり、これをウォレス・クレーグは欲求行動と名付けている。」(原文傍点有り)(コンラート・ローレンツ『攻撃』日高敏隆他訳)

今日の社会で見られる人間の過激または逸脱的な行動について、持て余した社会欲求を解消するための「欲求行動」であると見做せるであろう。

4.2 外圧の低減と内圧の増長

大気圧の存在が明確に知られるようになったのは意外に遅くて、例えばトリチェリやパスカルの実験は17世紀である。空気は常にどこにでも存在しているので、却ってその事実に気付けなかったのであろう。

空気の圧力を社会の圧力に喩えられる。伝統的な社会では、文化的な規範や宗教的な戒律などが強い影響力を持っていて、それらは人々の頭上に重くのしかかっていた。そのような社会的圧力に対して疑いの目が向けられる事はあまりなく、それは存在していて当然であると見做されていた。

しかし近代以降になって、政治・経済・技術などの面で大きな変動が生じ、自由で安楽で退屈な社会が到来した。表現を変えると、重い社会から軽い社会になったとも言える。しかし、一気圧程度の圧力が自然であるように、多少の社会的圧力は人間の精神衛生にとって必要な存在であろう。その点について、フランクルが「実存的空虚(existential vacuum)」という表現を用いているのは本質を突いている。

社会的圧力という環境の圧力と、社会的欲求という内面の圧力の両者が均衡していると、心理的に安定した状態を得られるのであろう。しかし希薄な社会において、外圧が低下すれば、抑えられていた内圧が増長し、不快さや不安さを覚えるのであろう。

世間には様々な形態の逸脱的な行動が見られるが、それらは満たされない社会欲求を解消しようとする足掻きであり、喜々として行われているというよりも、止むに止まれずに行われているのであろう。哲学者のショーぺンハウアーは悲観的な見方を持っていて、人間は退屈であるから社交をすると主張している。

「満足があまりにもたやすく得られるなら、人間からはそのもろもろの客体がすぐさまふたたび奪い去られることになり、このため人間にとっては意欲の客体が欠如してしまう。すると人間は恐るべき空虚と退屈に襲われることとなる。」「ところで退屈というものこそ、やすく見積もってはならない害悪である。それはとどのつまり正真正銘の絶望を顔に表わす。人間たちのように、お互いに好きあってもいない者どもが、かえってひどくお互いに求めあうようになるのは、退屈のせいである。これによって退屈は社交の源泉となるのである。」(『ショーペンハウアー全集3』斎藤忍随他訳)

それが社交と呼べる範囲内に収まるなら問題にはならない。しかしフランクルはそのような感情によって、犯罪的また病的な行為が生じると主張している。

「無意味さの感情は、攻撃性ないしは犯罪性、薬物依存そして自殺、とりわけアカデミックな青年層のあいだでのそれといった現象の世界的な増大にとってもその根拠になっているのであります。」(V・E・フランクル『生きがい喪失の悩み』中村友太郎訳)

その一因としてフランクルは人間と動物の差異を指摘している。動物は教えられなくても、欲求を解消する方法を知っている。しかし人間の場合は、本能という先天性と、文化という後天性の両方から制御されていて、特に社会的行為に対しては、後天性の部分が強く影響する。

旧来の伝統や慣習が根強く残っている時代では、善悪は別にして、国家のために働くとか、代々の家業を継ぐなどの明快な生き方があった。しかし急激な変動を経た今日の社会においては、かつての常識はそのままでは通用しなくなった。自由とは何をしても許されるという状態であるが、言い換えると、指針が失われた状態である。

一昔前には学生運動が盛んであった。それについての解釈は様々であるが、大学という自由な環境の中で、時間と情熱を有り余るほど持ち、そこに群集心理という要素が加われば、与えられた方向へ雪崩を打つという現象が生じても不思議ではない。

今日の価値観からそれを批判する事は容易である。しかし「20歳の時にリベラルでなければ情熱が足りないし、40歳の時に保守でなければ頭脳が足りない。」という言葉があるように、若い時期には血気盛んな精神状態を持つのはむしろ正常であろう。溢れる情熱をどうにかして消耗させなければならないとすれば、内面でくすぶらせているよりは、高い目標に向かって突き進む方が健全である。

それとは逆の堕落的な例として、江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』の主人公の精神状態を挙げられる。彼は何かをしたいという心情を持ちつつも、仕事にも遊びにも楽しみを見出せないという厄介な気質の持ち主で、「『こんな面白くない世の中に生き長らえているよりは、いっそ死んでしまった方がましだ』」という心境を吐露している。不幸な事に彼は犯罪にだけは心を惹かれ、些細なきっかけから衝動的に殺人を犯すに至る。

犯罪的行為に惹かれるという話は他にもあり、少し文脈は異なるが、太宰治の『人間失格』にも、「非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。」とある。

また別の例として、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』で描かれている世界では徹底した圧政が敷かれているが、人民を統制するための手段の一つとして、上記のような機微が利用されているという事を開高健が指摘している。

「この『一九八四年』でこれだけは褒めておかなければいけないのは、猥本課という仕組みを考えたことだね。そこはポルノ・セクションというのでポーノ・セックといわれているんだけれども、政府が自らの手でエロ本を書いて、それを発禁本にして地下ブックとして流す、そして国民の目をたぶらかす。国民は捌け口がない。そのまま放っておくと爆発するから、密かに俺は国禁の書を読んで法律を犯しているんだ、政府の裏をかいてやっているんだという隠微な楽しみを国民に与えるために、政府自らが秘密出版の形で猥本を流布させる。」(開高健『今日は昨日の明日』)

上記のような犯罪的行為に実利は伴わない。しかしそれによって社会的な接触を体験するという事は実現される。それについては接触というよりも、衝突という方が正確かも知れない。表現はともかく、社会的な意味において、環境という外部圧力と心理という内部圧力の両者が接触するという点がその本質的な要素であろう。

ネズミが何か物を齧る事で伸びすぎた歯を摩耗させるように、人間は社会的に接触する事で社会欲求を解消させるのであろう。両者の間に物理的か心理的かの違いはあるが、過度な増長の防止という点では共通している。内面に蓄積した社会欲求を接触や衝突よって解消させる事で満足感を得られるのであろう。

衝突という現象が成立するためには、本人の主観の中で、対象物に対して、ある程度の存在感や抵抗感を感じる事が必要である。ネズミが齧る物は柔らか過ぎず、かつ硬過ぎずの状態が望ましい。それと同じように、社会的な接触における抵抗感も中程度が望ましい。

硬さとか抵抗感という物理的な概念を社会的な概念に言い換えれば、権威という言葉が相応しいであろう。強い権威に対しては、恐ろしさで近寄る事も難しいが、一方で弱い権威に対しては、歯応えも手応えも得られず、相手をしても退屈になるだけであろう。

一例として、昔の国家は強い父権的な権威を持っていたが、現在ではそれは随分と低減している。当時では国家権力と闘うという言葉には格調の高い響きがあったが、国家的権威の低下に伴い、それは今日では精彩を失っている。取るに足りない相手に気負って突っかかって行くのは独り相撲のような滑稽さがある。

社会的行為の分類として、向上的か堕落的かの方向の点から、また能動的か受動的かの形式の点からも区別できる。『一九八四年』の世界で猥本を読むような堕落的な衝突は犯罪的行為であると言える。もしそれが堕落的ではなく、向上的であれば、「隠微な楽しみ」ではなく、晴朗な楽しみを得られていたであろう。

5.1 目標を持つ事の効果

満足や幸福は奮闘や努力を通じて得られるという考え方がある。例えば心理学者のチクセントミハイはフロー体験と呼ばれる忘我の境地について研究している。そのような精神状態の実現のためには、課題自体にある程度の難しさが必要であるという。また芸術論として、ジイドは「芸術は拘束より生れ、闘争に生き、自由に死ぬのであります。」と述べている。

課題の解決や障壁の克服を行う過程で、満足を得られるという主張は突飛ではない。例えば危険を省みず前人未踏の地へ突き進む冒険家や、寝食を忘れて研究に没頭する学者などがいる。それらは気楽にできる事ではないが、彼らがそこに代えがたい幸福を感じているという事は想像に難くない。また社会活動家やスポーツ愛好家などの中には、過激で危険な行為に走る人もいるが、それらの心理についても同じように説明できるであろう。

課題と衝突する事で満足が生じるとすると、その実現には二つの形を考えられる。上記の例のように行為者が能動的に課題を探し求めるという形と、受動的な人間に課題が与えられるという形である。

例えばパズルやゲームなどの娯楽や遊びについて一般的に言える事として、課題が用意されていて、利用者はそれに取組み、解決して行くという形になっている。また芝居や映画の構造を大まかに言うと、悪玉を善玉が打倒するという形が取られている。悪玉が何らかの問題を引き起こさなければ話として成立しないので、むしろ悪玉の側が肝要な存在であるとさえ言える。

その点は新聞記事にも指摘できる特徴である。新聞社は公正中立を謳っているかも知れないが、事実が羅列されただけの文章を読んでも面白くないであろう。記事の中に明示的に書かれているかは別にして、社会にはどのような問題があって、それに対してどのような解決策があるかという形式で提供されている場合が少なくないと思われる。

そのような方法は娯楽のためだけでなく、福祉の分野にも利用できる。高齢者施設の入居者を対象にして、自己決定の効果を調査した実験がある。映画を観る日や植木の世話などの選択について、あるグループでは職員が決定したが、もう一つのグループでは入居者自身が決定した。結果としては、後者のグループの方が健康で長生きする可能性が高かったという。

言い換えれば、課題や目標が無くなると、満足や幸福も無くなるのであろう。例えば、アレキサンダー大王の逸話として、自身が築いた広大な領土を見て、征服すべき国がもう無いと言って嘆いたという。また困難な障壁があるから恋が燃え上がるというロミオとジュリエット効果が知られている。『葉隠』によると、恋の至極は忍ぶ恋であるという。三島由紀夫は『葉隠』の解説を通じて、そのような逆説を含め、人間心理の複雑さを指摘している。

「人間は大きな社会的なヴィジョンを一方の心で持ちながら、そして、その理想へ向かって歩一歩を進めながら、同時に理想が達せられそうになると、とたんに退屈してしまう。」「エピクロスの哲理は享楽主義(エピキュリアニズム)と名づけられるが、じつは、ストイシズムと紙一重であった。」「エピクロスの哲理は、享楽がそのまま幻滅におちいり、果たされた欲望がたちまち空白状態におちいるような肉体的享楽をいっさい排斥した。満足は享楽の敵であり、幻滅をしかひき起こさなかった。」(三島由紀夫『葉隠入門』)

人間は物質的な豊かさに慣れるという性質を持っている。例えば宝くじの当選者が浪費を重ねて破産するという話がある。また、この半世紀のGDPと生活満足度の関係を調査した結果によると、GDPは上昇し続けているにもかかわらず、生活満足度は横這いである。暮らしが改善されると最初は幸福でも、やがてすぐに慣れてしまい、さらにより良い暮らしを求めるというのが人間の心理的な特徴であろう。

生物学に赤の女王仮説という考え方がある。同じ場所に留まるためには走り続けなければならないという主張であり、つまり生き残るためには進化を続けなければならないという主張である。人間の精神的な構造もそのような宿命の下に置かれているのかも知れない。人類史とは発展の歴史であり、地理的・社会的に常に前進している。ルネ・デュボスは人間のそのような性質を無休性と呼んでいる。

「アルカデイアは想像力の強い過去の夢であり、ユートピアは理想化された社会の知的概念である。両者はちがうように見えても、現実とは一致しがたい静止した世界観である点では同じである。人間の条件はたえず動きつづけている。サー・ウィンストン・チャーチルは、『人間は安静だけを求めたことがない。天性の力によって、良かろうが悪かろうが、自力で休んで楽しめる幸福とはちがう幸福を求めて前進する』と書いた。歴史以前と古代歴史から、人間はその放浪の過去を忘れえず、しばしの間自分のものになる地球の片隅で静かに憩うことができないことを示している。地理的環境の変化だけでは満足せず、社会的環境までも変化させようともがく。人間のユートピアは、その基本的な無休性のために、新しいエルサレムの永遠の夢に歩度を合わせることができなかったのだ。」(ルネ・デュボス『健康という幻想』田多井吉之介訳)

5.2 闘う対象を求める心理

上記の見解をリベラル派の特徴についての説明のために利用できる。目標へ向かって前進し、それが達成されると退屈になり、また新たな目標を持つという循環は際限無く続く。理想が現実になれば、今度は別の理想を追求し始めるので、リベラルという言葉の意味が変遷して行くのであろう。

また過激派のリベラルの特徴として、非現実的な理想を掲げたり、現体制を殊更に悪として批判するというような行為が見られる。その二つは表裏の関係にあると見做せる。

ユートピアとはどこにも無い場所という意味であり、イデオロギーとは観念とか思想というの意味であり、いずれも非現実という意味に取れる。夢の世界と同じように、その中では完璧で無謬の理想的な状態を構築できる。

一方で現実とは汚点や醜い面が存在する場所である。そのような瑕疵が含まれているのが当然であり、むしろ無いと考える方が不合理である。しかし理想の方が正しいと信じれば、現実の方が間違っているという理屈を導き出せる。理想に照らし合わせれば、現実は正されるべきであり、そのような「課題」に対しては、奮闘するという行為が可能になる。

奮闘という行為には心理的な幸福が伴うので、取り組む事のできる対象として課題を欲するのは人間として自然な傾向である。意識的か無意識的かはともかく、奮闘に伴う幸福を得るために課題が設定されるのであり、課題の解決は目的というよりは、奮闘するための手段であると言える。

過激派のリベラルの社会活動についての解釈として、現実の課題を認識し、その課題に対して奮闘し、課題の解決を目指しているというように理解されているかも知れない。しかし実際には、課題を解決するために奮闘しているというよりも、欲求の不満が原因としてあって、それを解消するために奮闘していると思われる。

彼らが欲している事は奮闘という行為であり、奮闘するには課題が必要であるので、時には特に何も無い所から粗探しをしてでも、それを見い出そうとするのであろう。もし社会にいかなる瑕疵も存在しないとすると、何も攻撃する事もできなくなり、欲求不満を解消できなくなる。課題が無くなって奮闘できなくなるという状況は、彼らにとって最も望ましくない状況であろう。

議論の仕方とは、物事の長所と短所を比較して、その是非を論ずるというのが普通である。しかし彼らの立場としては、批判は既定路線であり、いかに理路整然と批判できるかが重要であろう。彼らの言説は表面上いかに理屈っぽく見えても、その根本には社会欲求の蓄積という感情が存在すると思われる。

今日の文明化された民主主義の社会では、欲求はそれほど多くは必要ない。しかし体質や年齢によっては強い欲求を持っている人もいる。欲求は解消されないと鬱積が蓄積して、精神的に苦しむ事になる。

多くの宗教では欲求や欲望を否定的に扱っていて、例えば足るを知るという教えがあるように、それらを抑制する事が推奨されている。一方で逆に開き直って、欲求を肯定するという態度もある。例えば密教の理趣経という経典には、性欲を肯定しているとされる文言がある。

社会的な闘争を是とした思想として批判理論がある。ドイツのフランクフルトの社会研究所に所属する学者達が作った理論であるので、フランクフルト学派の批判理論と呼ばれている。別の角度から見ると、それは社会欲求の解消を肯定しているとも取れる。

「伝統的理論と対照させるならば、批判的理論は命題が矛盾をもたないことを理論の真理の証とはしません。むしろ、自らが矛盾に貫かれた社会のなかに置かれていること、さらには自らの理論自体がそういう矛盾に満ちた社会の産物であることを徹底的に意識化します。」「批判的理論は、伝統的理論のように、たんに現状を観察したり記述したりする位置にとどまることはできません。社会が総体として抱えている矛盾の廃棄という実践的関心に、批判的理論は導かれています。批判的理論は、個別的な科学や学問の成果を、この実践的関心のもとに集約してゆきます。そのとき、個別科学や学問は現状を維持するための道具ではなく、変革の梃子としての役割を果たすことになります。」(細見和之『フランクフルト学派』)

6.1 是非善悪の判断基準

上記の引用文では、伝統理論と批判理論が対比されている。伝統理論とは科学的な思考法と同等であろう。科学者は自然現象について、どうあるかという事実論を行う。科学者がどうあるべきかという価値論を行わないわけではないが、その二つは区別して議論されるはずである。しかし科学者と言えども社会的な存在である以上、客観的な観察と言っても、その時代と場所の社会的な価値観に何らかの形で影響を受けているはずである。

ソクラテスは何も知らないという事を知っているとして、無知の知を提唱した。またデカルトは何もかもを疑ったが、疑っている自分自身の存在は確実であるとして、「我思う、故に我あり」という言葉を残した。肯定ではなく否定から入り、否定する事を肯定するという点で批判理論はそれらと似ている。それは哲学的には高尚なのかも知れないが、実際面においては建設的といよりも破壊的な思想と言える。

批判理論について考える上では、時代的な背景として、当時はナチスによる政治支配という事情があった事を無視できない。彼らユダヤ人の学者達がドイツの全体主義に対して疑義を唱え、変革を目指したのは妥当である。ただしより一般的に言って、批判する事の是非善悪をどう判定するかは難しい問題である。

歴史の中では常識や定説が覆されたという事態は幾度も起こっている。例えば昔は鳥のように空を飛びたいという願望を持っている人は夢想家という扱いを受けたであろう。また中世的な身分制度の感覚では、庶民でも才覚さえあれば宰相にもなれるとは到底信じられないであろう。

事実と真実は同じではないと言われるように、科学的な正誤と社会的な善悪を同列には扱えない。ある理論が科学的であると見做されるためには、それが原理的に反証可能性を持っている事が必要であるとされる。

科学史ではある仮説が立てられては覆されるという事が繰り返されている。例えばかつては天上界の法則は地上界と異なると考えられていたが、それは万有引力の法則によって否定され、後にそれもまた相対性理論によって修正を受けた。

社会的な善悪をそれと同じように議論する事はできない。善悪に絶対的な基準など無く、善悪論は水掛け論にしかならないと思われるかも知れないが、進化史という観点から一つの説明が可能である。生物の性質は環境によって形成される。人間の特徴は集団で社会を作る事であるが、組織の中で生きるのは難しく、分業・協力・競争などの点で上手く対応する必要がある。

そのような複雑さについて、デイヴィッド・スローン・ウィルソンは『社会はどう進化するのか』(高橋洋訳)で簡潔に纏めている。「ダーウィンの〔グループ内とグループ間の〕二レベル選択の理論を次のように要約した。」として、「グループ内では利己主義が利他主義を打ち負かす。利他的なグループは利己的なグループを打ち負かす。それ以外はすべて、つけ足しにすぎない。」と述べている。そこから導ける事として、「善の問題に対するこの答えは単純だが、その意義は計り知れない。」と強調されている。

集団選択説が論争の的になっているのは事実であるが、それを善悪についての判断基準として利用できる。道徳や法律の中には禁止している理由を説明するのが難しいという事例がある。例えば、実際に摘発されるかは別にして、賭博・売春・放浪などは法的あるいは道徳的な規制を受けている。
その理由を集団選択の観点から説明できる。遊興などの非生産的な行為に熱中している個体で構成されている集団は、そうでない集団との競争に勝てなくなるはずである。

現代では個人主義という考え方が強い。政治体制としても、権利や義務は個人に与えられているように、個人が重要視されている時代であると言える。しかし完全な個人主義は人間観としては不適切な見方であろう。個を強調するのは良いとしても、人間が持つ集団的な志向を切り捨てるのは過度な単純化と言える。

利己性と利他性は基本的に相反するので、両者を満足させようとしても、普通は解決できない問題になる。なお両者の対立は矛盾というよりも、葛藤と呼ぶ方が適切かも知れないが、それはともかく、矛盾が存在するなら、矛盾が存在するという事を事実として受け入れるべきであろう。

しかし清濁併せ呑むという行為は心理的な負担が高いため、白黒のはっきりした単純な理解の仕方を求めるのは自然である。また論を立てる場合、矛盾や葛藤は致命的な誤謬であるという扱いを受け勝ちなので、その点からも簡潔さや純粋さが求められる。例えば、生物学での氏か育ちかを巡る論争において、遺伝と文化を二項対立させ、二つに一つという考え方が取られる事もあったが、それも同じような理由によるのであろう。

個人主義という見方を取ると、矛盾の無い理路整然とした人間観を得られるという都合の良さはあるが、その一方で、人間性における非利己的な部分を、つまり美徳の部分を見落とす事になる。

「である」の議論と「であるべき」の議論を区別するのがヒュームのギロチンである。しかし現実的には「である」から「であるべき」が導き出されている場合も多い。例えば「勝てば官軍」とか「力は正義なり」という諺は非常に説得力を持っている。そのような見方に立って、政治体制や社会制度の是非について、国力とか経済という基準を用いて判断する事も可能である。

近世以前の社会とは、領主が農奴を支配するという比較的単純な構造である。しかし時代が下るにつれて、工業や商業が興り、社会が複雑になると、
世襲の専制者よりも、各業界の代表者達の方が政治の担い手としては適切であろう。結果論になるが、歴史的な進展を顧みれば、専制的な王政を維持しようとした保守派は間違っていて、それを打倒しようとした進歩派が正しかったと言える。

近代における最も重大な問題の一つは資本主義の評価であろう。それについて一つの答えはすでに出ていて、資本主義を肯定した保守派が正しくて、それを否定した進歩派が間違っていたと言える。私有権が認められなければ、労働意欲が高まらず、生産性が低くなり、軍拡競争に耐えられなくなるというように、善悪論ではなくても、国力の強弱の点からもその是非を判断できる。

差別について説明する場合にも、正義などのような観念語を持ち出す必要性は必ずしもない。フリードマンは経済の観点から、差別をすると損失を被るので、競争に負けて、市場から駆逐されると主張している。
「ある実業家とか企業者とかが自分の事業活動において、生産的効率性と関係のない選好をあらわすならば、彼はそうでない人びとにくらべて不利になる。そのような個人は事実上、こうした選好をもたない人びとよりも高い費用を自分自身に負わせていることになる。そのために、自由市場では後者の人びとが彼を駆逐することになりがちであろう。」(M・フリードマン『資本主義と自由』熊谷尚夫他訳)

6.2 結語

現代では個人の自由に最高の価値が置かれていて、国家による私権への容喙は少ない方が望ましいとされている。言い換えれば、国家は民衆に特段の課題や目標も与えず、いわば放置している状態である。人によっては、そのような自由を退屈に感じるかも知れない。

生きる上での精神的な充足を与える存在として、かつては宗教が旺盛であった。しかし近年では科学の発達や政教分離の徹底によって、伝統的な宗教の権威や影響は低減している。

社会主義の下では宗教は否定的に扱われる事もあるが、ある特定の価値観を是として、私的な領域への干渉の度合いが強いという点において、両者は似ている。善悪は別にして、社会主義国家は人民への面倒見が良く、仮想敵国・プロパガンダ映画・扇動的演説・マスゲームなど、精神的に酩酊できる物事を提供してくれる。

体制はどうであれ、民衆の幸福を実現するのは国家の責務と言える。例えば日本国憲法には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と謳われているし、また国連憲章には、「健康とは、肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」と定められている。

現代の先進国の政情はまずまず安定していて、飢える事はほぼ皆無という状態であり、治安・医療・福祉は随分と充実している。しかしその施策の理念の中には社会欲求を満足させるという配慮は希薄であろう。

人間は自由を求めるが、実際に自由を得ると、すぐに退屈に陥る。そういう場合には創造的な行為などを出来れば素晴らしいが、小人閑居して不善をなすという言葉のように、凡人がそのような振る舞いをするのは難しいようである。

個々人が全体の事を考えず、自分の利益のためだけに行動し、その結果として全員が損をするというのが共有地の悲劇である。『社会はどう進化するのか』の表現を用いると、自儘な行為で得をするとは、「グループ内では利己主義が利他主義を打ち負かす」という状態であろう。

個人主義の観点から見れば、それでも問題は無いと言えるのかも知れない。しかしその次の展開として、「利他的なグループは利己的なグループを打ち負かす」という事態になると、そもそもの自由が奪われる事になる。

現実の問題として、ある集団が衰退すると、他集団から侵略を受け、駆逐または支配されるという出来事は無数に発生している。そのような悲惨な争乱の根絶を希求する事は当然であるが、歴史を振り返れば、それが空想的な願望に過ぎないという事も明白である。


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