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思想

※割と長々とカッコつけて訳分からんこと言ってます。

思想というのは、人それぞれ違うものだ。

何を当たり前なと思ってる方が多いと思うのだが、実際具体的なシチュエーションにあうと、意図せずとも否定してしまうことがある。

先日、とある偉い人(成功した人?)の話を聞く機会があったのだが、大変興味深い話だった。今回は内容には触れず、その後の話だ。私は友達とそのことについて話していたのだが、私が

「あんまり共感できなかったなぁ」

と言ったら、何故か批判されたのだ。もちろんガチガチの反論ではなく、友達のノリで

「なんでだよw」

ってな感じだ。

成功者の意見はあくまで「意見」であり、人生においての「正解」という訳では無いはずだ。人がいればその分だけ「思想」があるはずだ。であれば、共感できない「意見」の一つや二つ、あって当然ではないか?

それでも「偉い人」を、ある種、信仰してるような人からすれば、僕は間違っているのである。そうでなくとも、一般人からしても、「社会的に」、みんなが正しいと言っているようなことは正しいのであり、それに異議を唱えるのは「おかしい」ことなのである。

日本では(世界でもなのかもしれないが)しばしば、偉い人の言葉は崇められる傾向にある。

たとえば、ひろゆきさんの言葉はネットスラングとしても使われているが、「ひろゆきはこう言ってた」という言葉を聞くことが少なくないはずだ。
ちょうどこの前も、DaiGoさんが「ホームレス」について言及して、散々たたかれていた。

有名人(や影響力のある人)の言葉には責任がある、という話は置いておいて、DaiGoさんがどう考えようと彼の勝手だし、それを発表しようと自由なのではないか?...と思う訳だが、話がそれそうなので一回置いておこう。

とかく、偉い人が言った言葉はあたかも「正解」のように聞こえてしまう。だからこそ、「正解であるべき」DaiGoさんの意見が、「間違っている」時、人々は失望するのだ。なんだ。所詮その程度か、と。だから人々は彼を叩き、彼もまた「自分が悪い」と謝らざるを得なくなる。

しかし本来「正解」など無いはずだ。そもそもなんのために生きるのかすら曖昧な世界に正解などあるはずがない。

しかしそれでも、そういった「正解」を人生の指標にする人すらいる。それが絶対的に悪い事だとは言わない。でも人それぞれ境遇が違えば性格が違えば容姿も違うし思想も違う。それなのに同じことを目標にしたところでそこに意味などあるのか?

アイドルになりたい人がいれば宇宙飛行士になりたい人もいる。はたまた明確な意思や目標などなく、なあなあで生きている人だっている。そのどれしもが間違ったことではない。別に学校の成績が悪くても生きていればそれでいい、ブラック企業だけど生きてるからそれでいい。そんな人だっているのではないか?

何も夢を叶えるだけが人生じゃない。自堕落な生活を送っていても人生だ。むしろ自堕落が夢でも人生だ。どんな人生を送っても人の勝手だ。先生なんかに「お前はどうしようもないな」なんて言われる筋合いはない。そんなことお前には関係ないだろう。

別に生活保護だろうがホームレスだろうが借金まみれだろうが逃亡生活だろうが牢獄生活だろうがどうでも良くないか?好きなように生きればいい。

学校ではより「優秀な人間」が、褒められ、讃えられ、必要とされてきた。成績上位者は廊下に張り出され、逆に成績下位者には追試が待っている。でもそんなことに意味なんて何も無いのだ。

生きる先には客観的な、絶対的な否定も肯定もない。ただ生きるのみ。

とにかく何が言いたいかと言うと、「偉い人の言葉」だけが全てじゃない。考えることをやめてもいい。楽に生きたいならそうすればいい。「優秀」を目指す必要なんてどこにもない。生きるのが辛いと思ったら死んでもいい。人生は唯一、自己の好き勝手にできるものだ。優秀を目指してもいいし、自堕落を目指してもいい。どちらだって立派な「夢」だと思う。

偉そうなことを言っているが、これもまた一意見でしかない。考えた上ででも、考えないででも、なにかしても、何もしなくてもどっちでもいいんじゃないか。生きようが、死のうが、どっちでもいいんじゃないか。

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