怒りの琴線
相手がどんな時にどんな言葉によって怒るのかというものは
本当にわからないものだなとつくづく思う。
こちらとしては全く悪気なく気を使って相手に伝えたつもりでも、怒れる人のスイッチが入ってしまうという時がある。
相手が怒っているのがわかって初めて「え?」という気持ちになるのだ。
言われた事が当たっているから腹が立つということもよくある。
「自分の中から湧いてきた感情は、過去の消化しきれていないトラウマや何かが、状況や時間、相手を変えてリピートしているだけだ」
とよく聞く。
私もそう思う。
私は寝る前に一日あったことを、回想するのだが、
特になにかに怒りの感情が生まれたとき、
一応心のメモに怒ったことを留めておく。
そして日記にムカついたシチュエーションや感情を吐き出しておく。
相手との立場と状況にもよるが、ムカついたからといってすぐ口論に、なったり喧嘩になったりというのはできるだけ避けたい。
かと言って我慢するのは身体によろしくない。
私の場合、対象の大半は「夫」である。
「ちょっと聞いてよ!!」と夫へ抱いた怒りの感情を別の家族や友達など第三者に話すということもでてくる。
こんなに頭にきているのに、相手は
「えそんなことで腹が立ったの?」とかわされることもある。
人に話したからと言って「怒り」エネルギーを伝達しただけで根本的解決には至らないことくらいわかっている。
相手が家族の場合、特に旦那の場合、ムカついた内容を心のなかではらみながらも、伝えなければいけない事務的要件があってコミュニケーションを取ったり、生活の中でなんとなく時間が経っていくうちに尖った感情が丸まってくる場合が多い。
相手が家族や恋人、友人など濃い付き合いの間柄で、これからも関係を保つ必要のある人の場合は特にちょっと感情が静まったときに勇気を出して丁寧に本音を吐き出すことで解消されることが多い。
その際は、あくまでもメインは自分の起こってしまった感情について伝えるのがいいと思う。
「この間は、ごめんね。あの時つい私はこう思ってしまって。
それでこんな感情になってしまった。」
と細かく素直に。
相手に対して怒っているわけなのだが、
果たして本当に相手が悪いのだろうか?
怒りと言っても様々だし
怒らなければいけないというシチュエーションももちろんある。
昔付き合っていた理想主義の彼は喧嘩をするたびに私に言った。
「お前が変われ!」
(いや変われとか言ってるお前こそ変われ)
若い頃は相手とこういうやり取りをするものだが、もう40-50を過ぎてくると、
相手を変えようと思っても相手は変わらない。
ということが自然に腑に落ちてくるものだ。
子育て経験によって身についたのかもしれない。
相手は変えようとしてはいけないということにも気がついてくるのだ。
なので若い頃は活発だった夫婦喧嘩も半ば諦めムードとなっていく。
「感情吐き出し日記」は誰も見ない自分だけの日記で(自分が亡くなった時家族が見るかもしれないが)
その時々怒った事を綴っていくうちに、
シチュエーションや相手との会話の中で
なにか共通項のようなものが見出されることがある。
それは「怒っている最中」には見えてこないもので、大抵はその事が過ぎ去ってからふと思いつくような感じである。
内観すると、大体子供自体の感情の未消化であった原因が多いように思う。
例えば、「寂しい。かまってほしかった」という感情が私の中で奥深く眠っていて、何かのときにその感情が「怒り」となって溢れ出す。
「ああ。私、話を聞いてほしかったんだ。かまってほしかったんだ。。」など
誰も家にいない静かな時間に、子供時代の「私」を思い出す。
子供の頃弟が病気で母が弟につきっきりになってしまった。
さらに弟が亡くなってしまったのでその時の私の家族は大変だった。
しっかりもののお姉ちゃんだった私はかまってほしくてもかまってもらえなかった。
もっとかまってほしかったしたくさん話を聞いてもらいたかった。
「寂しかったね。話、聞いてほしかったね。かまってほしいよね。もう大丈夫。よしよし。」
と自分で自分を癒す。
涙が出てくる。
(これ書いてる最中にも涙出る!)
長年連れ添った夫とは様々なシチュエーションにおいて、「怒り」をぶつけた歴史がある。
私に起こってくる感情を内観した時にその頃のことを思い出すことが多い。
同じ相手(例えば夫)に
同じようなシチュエーションで
同じような内容で過去のあるときには怒っていたことも、原因が特定でき、癒やすことで「怒り」のスイッチが入らなくなってしまうのだ。
「ああ。また言ってるな」とか
話自体スルーできてしまう自分がいたりするのだ。
そう思うと
上がってきた怒りの感情は自分と向かい合うきっかけとなるものなのだと思う。
丁寧に向かい合って癒す事が大切だと思う。
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