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竹を割れ

こんにちは、白子です。

前の投稿から長らく時間が経ってしまいましたが、おかげさまで生きております。
最後に日記を書いていた時にはまだ暑い最中だったのに、今は寒さが背中に覆い被さるような季節です。

何が理由だったのかというと、
日記を書かなくなってしまったというよりも、日記を書けなくなってしまった。と言った方が良いのかも知れません。


今年になってから、なんだか小さな“ズレ”が積み重なっていくを感じていました。
働く環境が変わったこと、
働く時間が変わったこと、
お散歩の道が変わったこと、
周りの人たちが変わっていくこと、
自分は今のままで良いのかと考えたこと。

変化は総じて、自分の中では悪いことではないのです。

環境が変わることで、新たな緊張感や学ぶことがたくさんあって楽しかった。

働く時間が増えたことで、今の生活が少し豊かになった。

お散歩の道が変わることで、新しいものに出会ったり色んな場所に行くことができた。

周りにいる人たちの変化に、自分が何かできないかと考えることができた。

自分はこのままで良いのか、と考えて新しいことに挑戦することができた。

良いこともたくさんあったのです。
しかし、同時に自分にとってはズレの蓄積でもあったのだと日記を書けなくなってから気がつきました。
心が追いつかないくらいに嫌だなぁと感じることも積み重なって、大きな揺れを自分に食らわせることになりました。

それが、今までできたことができなくなってしまうくらいに強い衝撃だったのでしょう。

心が疲れてしまうと美しいものを見ても美しいと思えなくなるし、楽しいものを見ても笑えなくなってしまうので、嫌です。
そう自分に言い聞かせるような毎日でした。

自分の周りにいる人たちが困っていたり落ち込んでいるのを見て、大したことが何もできない自分をぶん殴ってやりたくもなりました。

もしも、自分の体の中が竹のように空っぽで宇宙のように真空であったら。
その中には有象無象の腐ったものが、音にならない悲鳴のようなものをずっと反響させているのかもしれません。
これが声にならない叫びなのであれば、それを発散させるために文章を書き続けるべきだったと後悔すらしています。

でも、そんなのはぜーんぶ自分がそうして考えているだけなのだと気がついています。

好きな言葉があります、
「自分が転んだのは誰かのせいかもしれない、でも立ち上がらないのは誰のせいでもないわ」
ルパン三世に出てくる峰不二子の有名な言葉です。

落ち込んで、そこでしゃがみ込んでいるのは誰のせいでもなく自分のせいだから。
強い人間でありたい、そう憧れて夢見るだけではなく目標にしなくてはなりません。


自分はずっと1人で、人から嫌われていると思って生きていました。
でも、今年はたくさんの人たちに助けてもらった1年でした。

自分のことを大好きだと言ってくれる日本人形のような先輩が、大切な結婚式に招待してくれました。

いつも自分のことを生きているか心配してくれている恩師が、新しい挑戦に向かって背中を押して応援し続けてくれました。


自分が新しい挑戦をすると言った時に、2つ返事で飛んできて協力してくれた後輩がいました。

鬱病になってしまった昔の教え子が自分を頼ってきてくれて、大したこともできなかったのに「力になっている」と前を向く姿を見せてくれました。

もう長い間日記を書いていないのに、限界コーンを見て自分を思い出してくれた優しい人がコメントで力をくれました。

自分の恩人である友人たちが、付き合いが短い自分のことを友人の1人として結婚式に招待してくれました。

離れて暮らしている父親が自分のことを心配して、仕事が終わった後に会いにきてたくさん話をしてくれました。

長らく疎遠になっていた恩師と再会する機会をもらって、また一緒にお話できるようになりました。

パートナーが落ち込んだ自分を見て、何も言わずに一緒においしいものを食べに行ってくれました。

大切なものがたくさんある人たちが、その一部を自分にも分けてくださったことに本当に本当に感謝しています。
そして何かを返せるような自分になれるように、そろそろしゃがみ込むのをやめて立ち上がらなければいけないと思いました。

暗くとろとろとしたものは今年に置いていって、新しく新鮮なものを身に詰め込む来年でありますように。

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