瞑想・スクラッチアート・疲れについて

瞑想的なものと情報のインプットの両方をやっていくということなのかもしれない。すぐに善か無か思考になって、マインドフルネスのみで生きていくとか、あとはスクラッチアートだけをやって生きていくとかを考えがちであるんだけれども、いろいろなものを散りばめながら生きていくということになるのだろうと思う。一個のものを継続することは多分、性格的に向いていない。家事がある程度、続いているけれども、このような生活に密着したものであれば続けやすいのかなとも思う。仕事というのもそういうものに近いのだろう。しなくてはならないからやるというある程度の強制力があって、やっていてそこまで苦ではない、むしろ何か自分を救ってくれるような、脳の休息または栄養になることを仕事にすると良いのかなと思う。これはでも無意識のうちに誰かに見られるかもと思って書いてしまうように変化してしまうかもしれないな。このまえ、ふかわりょうの新聞の切り抜きを見た。カメラを持ち歩いてその瞬間を記録することをやめたと書いてあった。写真を撮ろうとすると、その瞬間の場面に集中できなくなってしまう。その場の臨場感が失われてしまうというようなことが書いてあった。あとは、その場の緊張感、一度しか現れない瞬間、すぐに忘れてしまうことになるかもしれないという緊張感。これはとても共感した。なんでも記録したいと思っていたが、思い出のようなものはカメラではなく、自分の目でしっかりと見ておきたいと思った。あとはいいねをしてもらうために写真を撮る行為も批判的だった。確かにこれを求めると、自分の感性と離れていってしまうことがある。自分が良いと思うものではなく、他の人が良いと思うものを写真に撮ろうとしてしまう。自分だけがいいねをできるものだけでいいといっていた。なるほどなと思った。

 少しだけ、キャスをやった。7分くらい。まずはこのメモにテーマと簡単な話す内容を吐き出して、それを参考にしながら、キャスラジオをはなしてアーカイブに残すという作業。自分の話をする練習になるし、自分の考えを整理することができるので、結構いい感じがする。文字として書き出すときと、声に出すときでは脳の回路が違うだろうし。いい感じだと思う。勝手に続けていこう思う。これが生活の一部になればいいのかな。

 昨日はかなり疲れた。というか躁状態のおわりごろなのかなという気がする。まだキャスをやる元気はあるし、そとに出る元気はある。ここら辺は調節できるようになってきているのかもしれない。アクセルをいれすぎない。ブレーキも意識的にいれていく。アクセルは情報を仕入れること。本をよんだり、動画を見たりすること。ブレーキは昼寝、ピアノ、スクラッチアートかな。こういうのを意識的にふやしていって、日々の生活に散りばめていくと、バランスが取れてくるのではないかと思う。疲れてきていることをメタ的に実感できるようになってきたのはかなりの成長だと思う。数年前まで疲れるとかストレスを感じるとはどういうことなのかまったくわからなかった。疲れではなく頭痛になるとか、病気になるとか体が悲鳴を上げ始めて活動が停止する。なので、頭痛や病気も疲れが原因だと思っていなかった。うつ状態も疲れからきているものだとは思っていなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?