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冷凍餃子議論に思うこと

ツイッター上での議論が2、3日遅れでニュースに取り上げられるのは恒例になりつつある。2020年夏には、冷凍餃子を食卓に並べたところ、手抜きだ、と夫から指摘された家庭での一幕が選ばれた。

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このツイートが出る少し前にポテトサラダを作る、作らないという議論もあった。

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“プロ”である味の素まで登場した議論は、賛成派優勢のまま終息に向かっている。議論の内容をざっくり分類するとこんな感じだ。

①冷凍餃子を出した妻は、子育て中で、しかも体調が悪かった。
(体調に起因する、共感性の議論)
②普段料理をしない夫は、妻の苦労というものをわかっていない。
(家事育児の大変さに言及する、ジェンダーバイアスの議論)
③冷凍餃子は美味しいし、栄養もある。子供も喜んでいるから万々歳だ。
(冷凍餃子そのものの食事的価値の議論)

一連の議論を見て私が違和感を覚えたのは、賛成派も反対派も、共通の発想の上で議論を交わしている点だ。

それは「手間をかけることには価値がある。」という発想だ。これをAとする。

賛成派「A、とはいえ“手抜き”呼ばわりは一方的で想像力に欠ける」
反対派「A、だから、大変でもやるべきだ、あるいは、やる価値がある」

極々単純化するとこういう形になる。
両者は同じ土台の上で戦っているため、感情論に終始したり、栄養価の数字を持ち出したりして、結論:場合による、という地獄の平行線から抜け出せずにいる。これでは、中身だけをすり替えた議論がいずれ再登場するだけだろう。
せっかく議論するなら、もう一歩手前の発想から見直して結論をつけるべきだと私は思う。

それは「手間は既に人間のコントロール下にある」という発想だ。これをBとおく。

B、だから大変な状況では手間を減らせば良い。
B、だから、その価値を感じられる時には積極的に手間を増やせば良い。
→つまり、手間は、状況に応じてコントロールすれば良い。

これで終わりじゃないか。

どこかで根付いてしまった、手間や苦労は良いものだ、という発想が、ねじれて、楽をするのは良くない、という思い込みを生み出している。善も悪もない、手間そのものについて議論するから話が終わらないのだ。
企業努力の恩恵を受け、安価に簡単に餃子を食べることができるのは良いことだろう。手間を減らしたい時には、遠慮なくそれを活用すれば良いし、手間自体を味わったり楽しんだりしたい時は、使わなければ良い。

手間は良いものだ、という決めつけこそが無思考の塊(ごみ)だ。

まずは思い込みを取り払うことから始めなければ。思い込みの土台の上で議論しても、進展することは無いだろう。進展がない議論なんて雑談にすぎない。え、雑談がしたいんですか?それじゃあ、何も言えることはないです…

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